附属特別支援学校校長メッセージ

平成23年度から26年度まで附属特別支援学校長を務めました。そのときのメッセージです。自分自身の記録として残しておきました。

平成23年度
平成24年度
平成25年度
平成26年度


<平成23年度>

お祝いのことば(平成23年度入学式式辞) 4月7日

 新入生の皆さん、入学おめでとうございます。
 小学部の皆さん、先生の顔と名前を覚えましたか? 先生は皆さんにとって一番大事な人です。先生の顔と名前を早く覚え、「せんせい」と声をかけ、先生と仲良くしてください。
 中学部の皆さん、同級生の顔と名前を覚えましたか? これから皆さんは同級生と一緒に勉強したり、遊んだり、作業をしたりするのです。早く同級生の顔と名前を覚え、みんなで仲良く活動し、楽しい学校生活を送ってください。
 高等部の諸君、皆さんの夢は何ですか? 高等部は皆さんにとって最後の学校になるかもしれません。高等部で社会人になるための勉強をしましょう。高等部卒業後は社会に出て仕事をするのです。大人になるのです。大人になったとき、どんな仕事をし、どんな生活を送りたいのか、今日家に帰ってからご両親と話し合ってください。そして早く自分の夢を先生に話せるようになりましょう。
 保護者の皆様、お子様のご入学、心からお祝い申し上げます。
 「この子らは世の光なり」 我が国の特別支援教育の父とも言うべき糸賀一雄先生の有名なことばです。戦後の混乱期、誰もが生きることで一杯だった時代に、近江学園という学校を作り、障害のある子どもの教育に取組ました。糸賀先生は、当時、人の手を借りなければ何もできないと偏見の目で見られていた子ども達を、自立した一人前の大人に育てました。やろうと思えばどんなことでもできることと、この教育を通して新しい国づくりができることを実践を通して示されたのです。そんな先生の願いと抱負を込めて、「この子らは世の光なり」ということばが生まれたのです。
 今こうして希望に満ちた新入生を目の前にし、私たち教職員はこの子らを一人前に育て、社会の一隅を照らす光にしたいという気持ちで一杯です。子どもたちを自立した大人として立派に育てることが、社会を復興させることにもつながると、私は信じております。今年度わが附属特別支援学校は新たな校舎を与えていただきました。今まで多くの方が築いてきた伝統を礎に、新たな歴史を築いて参ります。
 そこで私は、一つの目標を提案させていただきます。「新潟から社会を照らす光になろう」という目標です。子どもたちが自分の人生を楽しみ、社会に貢献できる人なって欲しいという願いと,実現のための決意が込められています。この目標は、教職員、保護者の皆様、そして児童生徒共通の目標です。まずは私たち教職員が、目の前にいる子どもたちの教育に全力を尽くしたいと思います。保護者の皆様には、積極的に学校運営にかかわり、私たちと一緒に歩んでいただくことを心よりお願い申し上げます。


附属特別支援学校の役割(職員向けのプレゼン) 4月15日

1.校長として教職員の皆様にお約束したいこと
 (1)新しい特別支援学校の創設:インクルージョンと専門性の両立
 (2)教職員の生きがいの尊重
 (3)大学(特別支援教育専修)との一体化:大学教員の常駐(長澤)

2.概念図







3.具体的な構想
 (1)教育:コミュニティーインクルージョンの推進
 (案)地域で暮らし続けることができるための教育、キャリア教育の充実、多様な進路、個別計画作成への本人参加、附属学校との連携強化
 (2)センター:トップレベルの専門機関
 (案)オリジナリティーのある専門機関へ、大学教員の積極的参加
 (3)研究:普遍性、発展性のある研究
 (案)EBPの徹底:成果を科学的に証明すること、SOS:Speedy,Originarity,Simple、学会発表レベルの研究
 (4)コミュニティー:市民が集うコミュニティーを目指して
 (案)実習棟の積極的活用、関係機関や団体との交流促進、付属校との交流促進、通級指導教室から学校交流へ

4.教員の皆様へ
 ・目標を持ってください:学校に対して、自分に対して
 ・アイデアを聞かせてください
 ・自分自身、何ができるかを常に考え、行動してください:主任の立場で、一市民の立場で

5.教職員、保護者、児童生徒共通の目標

 『新潟から社会を照らす光になろう』




教員の皆様、自分の個別の指導計画を作りませんか? 4月27日

大学院の授業「特別支援教育特論」のガイダンスで聴講生に課した課題です。
「自分自身について、この一年を見通した個別の指導計画を作成しなさい」

個別の指導計画の内容は、次の通りです。
1.いまのわたし(実態把握)
2.なりたい私(願い)
3.長期目標(この一年で達成したい姿)
4.短期目標(この一年で達成したい具体的な行動目標)
5.実行すること、助けてもらうこと(実行すること、人にやってもらうこと)
6.いつまでに?(評価日)

例えば、
・私は内向的で人とつきあうのが苦手
・明るく、誰からも話しかけられる人になりたい
・長期目標:多くの人とふれあい、雑談をすることができる
・短期目標(方法、評価日)
毎日ジョークを2つ言う(お笑い番組を週3回見る、家内にだじゃれを言い、評価してもらう。7月末までに達成)
自分から主任に話しかける(浅新聞を読み、主任が好きそうな記事を探す。9月末までに達成)

この課題は、中断はありますが10年ぐらい継続しています。
現職の先生でダイエットの計画を立て実践し、成功された方もいます。

皆様も、遊び感覚で試して見られてはいかがでしょうか。
個別の指導計画を立てられる子どもや親の気持ちが、少しはわかるかもしれません。




説明責任と結果責任 5月8日

皆さんご存じのことと存じますが、責任には説明責任と結果責任がありますね。
結果責任とはしてしまった過ちを償うことです。
説明責任とは、予想されるリスクに関する情報を提供しなければならないことです。
説明責任を十分果たすことで、結果責任を回避することが期待されます。

例)
説明責任:電子レンジの取り扱いマニュアル「この電子レンジで猫を乾かしてはいけません」
結果責任:マニュアルにこの一文を書かなかったため、電子レンジで猫を乾かして死なせた消費者から訴えられ、賠償金を払った

なお、この電子レンジの話は都市伝説だといわれています。

特別支援教育における説明責任の道具は、個別の教育支援計画でしょう。
子どもに特別に提供される支援について、あらかじめ保護者に説明するわけですから。
元々はアメリカの個別教育計画(IEP)が有名です。
ただ、IEPは親のサインが必要です。
親が教育権を握っていると言うことです。
あるアメリカの教育学者が言っていました。
「親に教育権を握られてはいけない」
まあ、学校の主体性が脅かされているという言う意味でしょうか。

「日本で親に教育権を握られないようにするためにも、教師の専門性を高める必要がある」
その教育学者は、続けてこう言いました。

まずは、保護者に対して丁寧に説明をし、一緒に考える姿勢が大事なのではないかと、私は考えます。


校舎増改築の効果? 5月13日

5月12日(木)、多数の来賓の方々をお迎えし、児童生徒とその保護者と共に校舎増改築をお祝いすることができました。
式典後、希望された来賓の方々が実習棟を見学され、口々にそのすばらしさをたたえてくださいました。
となると、当然当校の課題は、この立派な実習棟や新しくなった校舎を有効活用し、教育という本体を充実させることです。

新しい環境で学んでおよそ1か月。
その成果を評価するにはもちろん早すぎます。
しかし、確実に成果は現れていると感じます。

<昼休みの中庭>
人工芝が敷かれ、今まで以上に明るくきれいに生まれ変わりました。
学部を超えて多くの子どもたちが集い、笑い声が絶えません。
子どもだけではなく教師もリラックスし、子どもとの自然なかかわりが自然に生まれていることを感じます。
今後は、附属新潟小中学校の子どもたちとの自然なふれあいが、この中庭で復活することを期待したいです。

<始まった実習棟での作業学習>
物流や清掃の作業などが始まりました。
本物を使うことによる絶大な効果を感じます。
例えば、作業場の張り詰めた空気、生徒の真剣な表情、プログラム通りに主体的に進む作業、実際の職場で交わされるであろう会話など、「ここは学校なのだろうか」と思ってしまうぐらいの臨場感があります。

<実習棟2階の研修室>
大学連携事業の一つとして、大学院の授業が4月に第1回目が行われました。
大学院生が研修室に集まり、事例研究の授業を受けています。
いつもとは違った雰囲気に、皆真剣だったと記憶しております。
近日中には、大学院生・研修生による各種検査の実施、一般の方を対象とした教育相談が開始する予定です。

もちろん、通級指導教室も、今月末には開始いたします。

校舎増改築の成果を述べるにはまだまだ早すぎます。
新しい環境の下での教育は始まったばかりです。
しかし、少しずつではありますが、その成果は現れていることを実感しております。




運動会 5月28日

運動会の意義って、何でしょうか。
わたしは、共同体としての一体感、つまり、一緒に活動し汗を流すことでことばを必要としない共通意識を持てるようになることかなと思っています。

では、知的障害や自閉症の子どもにとっての運動会って、どういう意義があるでしょうか。
体力の向上のみならず、集団参加、見通し、役割分担など、運動会を通して身につく力はたくさんあると思います。
集団活動が苦手なお子さんでも、個人目標や個人の楽しみがそこにあるはずです。
共通の目標も大事ですが、個人目標と個人評価も重要だと考えます。
全てが同じ、一緒じゃなくてもよい、少しずつ、自分が納得するのを待って、同じ活動ができるようになるとよい、そう私は考えます。

そこで、私は先生方に次のようなメールをお送りしました。

運動会のような集団活動は、ASD(自閉症スペクトラム障害)の子どもにとって最も苦手な活動ですよね。
私は最初から最後まで同じにできなくてもいいと思っています。
個人目標をしっかり決め、本人と保護者に明確に伝え、個人目標達成が最も貴重であることを説明し、
同意していただくことです。
家庭でも、個人目標を頑張ることを繰り返し子どもに話すよう、保護者の方々に説明をしていただけないでしょうか。
仮に、多くの活動に参加できなかったとしても、個人目標がクリアできたなら、
運動会の評価は最高点を上げてよいと考えます。
また、目標通りなかなかできなかったり、みんなと同じ動きができないと焦りますよね。
できるだけ「やらされた感」を子どもに感じさせないような支援をお願いいたします

運動会終了後、私は次のように感じました。
今回の運動会では、ひとりひとりの子どもが主役になり、それぞれの良さを発揮できるよう、必要最小限の介助、そして子どもの能力とやる気を引き出す工夫が随所に見られました。
本当に見事だと思います。
今回の運動会での子どもたちの活躍を見て、この子らに必要なのは訓練することだけではなく、持っている力を最大限に引き出す周囲の支援であることを確信しました。
中でも、教師の工夫次第で子どもは大きくかわります。
特別支援教育は、持てる力を最大限に引き出し、子どもの自己実現を支援する教育だと、改めて思った次第です。



教育実習 6月20日
6月17日で2週間の教育実習が修了しました。
例年通り、教育学部から特別支援学校の教員免許取得をめざす学生が、附属特別支援学校にて約2週間生活しました。

考えてみますと、教育の素人である学生が、多様な実態のある支援学校に配属され、数日で授業をさせられる、これは、かなり大胆な養成システムだと思います。
子どもの実態をよく把握できていない状態で、子どもを指導する(もちろん、プロの先生がそばに何人かいますが)、これはすごいことです。

私は教育実習を考える時、徒弟制度が頭に浮かんできます。
徒弟制度とは、素人が親方に弟子入りし、日常生活を共にして、プロとしての技を磨き、時間を掛けて一人前に育っていく、そういうシステムだと理解しています。
「親方は何も教えない。自分で技を盗まないといけない」
なんてこともドラマで見たことがあります。

認定資格やプログラム化の流れに逆行するこの養成システム、皆さんはどう評価しますか。
確かに合理的ではないかも知れません。
非効率的な養成システムかも知れません。
しかし、プログラム化では得られない、何かを得るのではないでしょうか。
プロとしての神髄?、精神?、プロの奥義?
一緒に生活していると、いろんなことが感じられ、自分が変わっていくことを実感することもあります。

私が教育実習で経験したのは、プロの奥義だったと思います。
必要最小限の教材と教示で、知的障害の子どもに課題をしっかり示し、子どもの自主的な活動を魔法のように促すその姿は、三十年以上たった今でも忘れることができません。
「プロの実力を見た」
その時私は確かに感じました。
「この仕事は、世間が評価する以上の、何かとてつもない意義があるんじゃないだろうか」
学生である私は、当時あまり関心が持たれていなかった障害児教育に対して、今までにないほどの魅力を感じました。

今日の自分があるのは、教育実習で、指導教官に本物のプロの姿を見たからだと、実習のたびに思い出されます。


「一学期の通知表」 7月25日

本日当校の一学期が終了しました。
私にとって、あっという間の一学期(4ヶ月)でした。
4月当初に、校長としての所信表明をしましたが、やはり定期的に自己採点することが必要と感じています。
謙虚にこの4ヶ月間を振り返ります。

1.新しい特別支援学校の創設
建物は新しくなりましたが、これは私の実績ではありません。
特別支援学校としての専門性を高めるために何ができるか(何をしなければならないか)、現在主事の先生方を中心に、一緒に考えていただいているところです。
そもそも、目標自体が、とてつもない目標です。
現実を見据えながら、できることを一つ一つ、先生方と一緒に考えていきたいと思っております。

ということを考えると、5段階の2でしょうか。

2.教職員の生きがいを尊重
負担の軽減に何か貢献したでしょうか。
先生方の表情を拝見すると、お世辞抜きで生き生きしていることを感じます。
私が生きがいを感じた次第です。
もっと先生方のお役に立てるようにしないといけませんね。

成績は5段階の1だと思います。

3.大学との一体化
通級指導教室への研修生の派遣、教育相談の実施(現在3事例)、大学院授業の実施(事例検討会、親支援講座、教育相談など)、サテライト(?)の開設などです。
2番目以降は新規事業です。
少しずつではありますが、大学と一体化し、センターとしての役割に寄与しつつあると感じております。

ただ、目に見える実績を上げたわけではなく、評価は5段階の2だと思います。

総合評価は「もっとがんばりましょう」でしょうね。

ただ、子どもたちの顔と名前を覚え、少なくとも1回はすべての子どもと話すか、かかわったりしたと思っております。
このことは自分なりにがんばったと思います。
2学期は、まずは学校にいる時間を多くし、今すべきことと将来を考えて段階的に実施すべきことを考えていきたいです。


夏休み中の研修会 8月15日

夏休みは、教員向けの研修会がたくさん開かれます
教員免許更新講習、免許法認定講習、教育委員会主催の研修会、各学校主催の研修会などがあります
私自身、特別支援教育、UDL(学習のユニバーサルデザイン)、指導法、評価、知的障害、肢体不自由など、さまざまなテーマで研修会講師を依頼されます
声をかけてもらえることは、大学教員として、名誉なことなのかもしれません

このたびの更新講習でのことです
ある会場で実施された「特別支援教育の現状と課題」の研修会で、私は次のような試験を課しました

「UDLのチェックリストを使い、免許教科の授業の指導案を考えなさい」
(チェックリストは、http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~nagasawa/UDLchecklist1.2.pdf)

大学に戻り、答案を採点しました
幼稚園の先生から高校の先生まで、あらゆる教科の回答がそこにはありました(お見せできないのが残念です)
そして、
受講者の答案のレベルの高さ,充実した内容・ユニークさに驚かされました
一枚一枚じっくり読ませていただきましたが、新しいのもにチャレンジする先生方の強い意欲を感じました
そしてそこに、子どもへの深い愛情を感じました

更新講習の是非はともかく、教員は常に研修することが法的に義務づけられています
強制的に研修を受けさせられることは先生方の意にそぐわないと思いますが、新しい情報や指導法を学びたいという意欲をお持ちであることは、どんな研修会でも感じます。
大学教員である私は、その意欲に応えなければならないと、改めて感じました

最後に、受講者から拍手を頂戴し、思いがけない反応に、感動いたしました


ホップ、「ステップ」、ジャンプ 9月1日

二学期が始まりました。
当校の子どもたちも元気に登校してきてくれ、久々に見る笑顔に、私もうれしさを覚えました。

思えば、大学は二期制を採用して久しく、前期後期と独立した学びの時期が二つあって、季節とは無関係に運営されていることを感じます。
今では、9月卒業生も珍しくありません。

それに対して小中学校の三学期制は、日本の四季にうまくマッチしているように感じます。
さらに、これは昔からいわれていることですが、一学期に計画を立て(Plan)、二学期に実行し(Do)、三学期に評価する(See)という教育理念も三学期制にフィットしていると思います。
もちろん、一学期に実践がないという意味でもなければ、二学期制が日本の四季にあっていないといいたいのではありません。
三学期制に当てはめるとわかりやすいといいたいのです。

自己を高めるための考え方、実践方法を、「ホップ、ステップ、ジャンプ」のように三段階で考えた時、何となく四季にあっているように感じることと、「ステップ」の時期が秋に該当し、学びやスポーツなど、子どもの成長に最も適した時期であると感じるのです。

本日は、二学期制を採用している学校においても新たなスタートの日です。
子どもたち自らが新たに目標設定をしたり修正したりしたことでしょう。
この時、「自分は○○できる」「さらに○○ができるようになりたい」のように、肯定的な自己理解からはじめ、子どもの意欲を高め、「そのために必要な(大人の)支援は何か」を、自分できめられるようにしたいものです。

当校の公開研究会の主要なキーワードの一つが「自己決定」です。
「自分を理解し、自分を知る」ことは、自己決定の重要な概念です。
新たな学期のスタートの時、まずは自分のできることを知り、そしてステップアップしようという気持ちになり、できる目標をきめることが大事だと感じました。



宿泊学習 9月10日

宿泊学習(1泊2日)に同行いたしました。

スクールバスに乗り、アミューズメントパークで乗り物に乗ったり食事をしたり、リゾートホテルに宿泊したり、豆腐づくりを体験したりと、さまざまな活動を、生徒と一緒に楽しむことができました。

宿泊学習は、日常生活の指導、生活単元学習、作業学習など、特別支援学校独自のカリキュラムの集大成のような学習で、文字通り修学旅行といった感じがします。
2日間の共同生活の中で、身辺自立、基本的生活習慣、コミュニケーション能力、家庭生活、社会生活、余暇の楽しみ方など、さまざまな実態をアセスメントしたり、指導の成果を評価したりすることができると思います。ほとんどの子は、身辺自立も基本的な家庭生活・社会生活力が身についており、学校における指導の成果だけではなく、家庭の教育の充実ぶりを感じました。

非日常の生活を通して感じたことは、「一人でしなければならないことは一人ですること」と「一人でできそうなのだが、ここは先生の指示を聞いてから動いた方がいいこと」の区別ができること、これが重要ではないかと言うことです。

何でも自分でできることが自立生活に必要なことは言うまでもありません。
しかし、物事は自分だけできめられないこともあるし、むしろ他人の意見を聞いて動いた方がいい場合もあります。
私たち大人だって、特に旅行などの非日常場面では、自分の意思だけで活動すると、かえって不都合なこともありますよね。

子どもたちには何でも一人でできるようになって欲しいのは言うまでもありませんが、時と場合によっては上司や親、同僚に聞いてから行動する態度も身につけて欲しいと思いました。



全国国立大学附属学校連盟・全国国立大学附属学校PTA連合会「北信越地区総会・実践活動協議会福井大会」に参加して 10月2日

9月30日、標記会議に参加して学んだこと、思ったことを書きます。

まず校園長会での話題。
附属小学校が35人学級編成に向けて動いていること、震災対応として必需品の備蓄や避難場所としての活用を検討あるいは実際に進行していることです。予算はPTA予算など、独自財源を会えているようです。

分科会での話題。
特別支援学校が、放課後支援事業や卒業生支援の場など社会資源として活用されていることについて、実際の活動が紹介されました。
その活動に、大学生がスタッフ(ボランティア)としてかかわっていることが当たり前になっているようです。
近い将来、教員免許取得要件として4年後期に「教職実践演習」が必修になると、このような活動に、より多くの学生が授業単位取得目的で参加するようになると思います。

関係機関との連携の話し合いの時に、特に注目されたのが当校の実習棟新設と校舎の改築です。
というのは、老朽化された校舎で苦労されている学校や、生活訓練等がいまだ設置されていない学校など、設備が十分でない学校が普通にあって、当校はずいぶん恵まれていると改めて感じました。
良好な設備や環境だけで教育はできませんが、これらはよい教育の必要条件だと思います。
感謝しながら、子どもたちのために、十分に活用したいと思いました。

分科会はPTAの方々と一緒でしたが、この中で、PTA活動への父親の参加が大切であることも話題になっておりました。
お母さんたちだけでは心許ないということではなく、父親も積極的にかかわることが、PTA活動、そして教育活動をもっと盛り上げることになるのではないでしょうか。

新潟小前出発早朝6時、帰校深夜1時という強行日程でしたが、充実した一日でした。



公開研究会 10月23日

新潟大学教育学部附属特別支援学校第34回公開研究会が無事終了いたしました。

当校研究会に参加してくださいました皆様、本当にありがとうございました。
皆様からの温かい励ましのおことば、実践にかかわるご意見、子どもたちへの声がけ、一つ一つが当校にとっての宝物です。
皆様からいただいたアンケート結果と、分科会でのご意見を真摯に受け止め、これからの実践に生かして参ります。
今後とも当校の教育実践、研究にご支援をよろしくお願いいたします。

講演会に提示した資料を、この記事の一番最後にアップしました。
どれほど皆様のお役に立てたかどうかは自信がありませんが、これまでの研究や経験からの知見を私なりに正直にまとめたつもりです。
参考になれば幸いです。

最後になりましたが、今回の研究会実施に向けて長期にわたり夜遅くまで取り組んだ教職員の皆様、本当にありがとうございました。
先生方のご努力により、研究会が成功いたしました。
また、当校の実践を支え応援してくださった保護者の皆様にも厚く感謝申し上げます。
熱意ある先生方と、応援してくださる保護者の皆様、そして子どもたちが自分らしさを発揮しているときの表情が、私にとっての最高の宝物です。



秋期教育実習 11月7日

秋期教育実習が終了しました。

今回、最終日に実習生に話した内容を、書かせていただきます。
実際の内容に加筆しました。

私自身の附属特別支援学校の実習(昭和55年)で、もっとも印象に残っている授業は次の通りです。

それは、「父の日」という生単の授業でした。
授業の導入で、担任の男性教諭が何も言わず立っていました。
そこに男性用のジャケットをはおって、手作りのネクタイを着けた副任の女性が入ってきました。
小学3,4年生の子どもたちは、「お父さんだ!」と声をそろえて叫び、喜びました
担任は、「そうですね」と肯定し、父の日のプレゼントとなるネクタイを作る活動に入ったのでした。
導入から本題に入る流れがスムーズで、子どもたちが意欲的に作業に取り組んだ授業でした。

準備したのはジャケットとネクタイ、説明はほとんどなしという、きわめてシンプルな授業に、くどくどと話したり必要のないものまで準備していた自分の授業とのレベルの違いに、圧倒され、今でも鮮明に記憶しております。

Simple is best.

私はこの授業からこの理念を学びました。
そして、附属での実習を通して、知的障害の教育における指導の「型」、授業の「型」を学んだような気がします。

素人である学生の皆さんにとって必要なことは、このような基本となる型をマスターすることだと思います。
いろんな型を学び、そして自分の指導のスタイルを確立することを期待します。
型にはまらない教師になりたければ、まずは型を身につけること。

基本を大切にし、将来型破りな教師になって欲しいと願っております。



音楽、図工(美術)、体育 11月28日

ちょっと前の話になりますが、第45回全国女子体育研究大会の特別支援学校分科会が、当校で開催され、小学部が表現遊び「みんなで海の中」の授業を公開しました(11月18日)。
私は所用で参観できず申し訳なかったのですが、分科会で授業について高く評価していただいたとのこと、私もうれしく思います。

今回、知的な遅れのある子どもの音楽、図工、体育はどうあるべきか、日頃思っていることを書いてみました。
これは、あくまでも個人的な意見です。

知的な遅れのある子どもに、これらの授業をしたり、活動内容を考える時、やはりいくつかの段階があると思います。
第一段階は、楽しむ段階。
技術的なことはともかく、歌ったり、作ったり、体を動かしたりすることが「楽しい」と感じられる段階です。
第二段階は、技術を身につける段階。
スキル・技量アップしたり、体力をつけたり、ルールを覚えたりすることにより、さらに楽しさを倍増する段階です。
第三段階は、人に認めてもらう段階。
上手にに演奏したり、描いた画が評価され賞をとったり、勝負に勝ったりすることにより、音楽、美術、体育の持つ本質的な価値を見出す段階です。

もちろん、この他にも、子どもの発達段階(知的、体力など)や認知特性に応じた内容、支援を準備することが大切ですから、教科の専門性を身につけることはいうまでもありません。
これら三段階それぞれにあった授業の工夫を、私自身、今後も考えていきたいと思っております。

学校で学んだこれらの教科が、将来この子たちの余暇活動につながることを願わずにはおられません。



みんな、今年一年、ありがとう 12月22日

今年一年ををふり返って見た
1月、教授会で校長に選出される。多くの方々が自分を支持してくださったことに、正直驚いた
2月、完成間近の附属に、時々立ち寄った。副校長先生と話をするうちに、校長になるという実感が少しずつわいてきた
3月、引き継ぎをする。震災直後の暗い雰囲気で、自分は何ができるか、悩んだ
4月、校長としてのビジョンを職員と保護者に示す。私の話を真剣に聞いてくださった皆さんのまなざしが忘れられない
5月、増改築記念式典と運動会、PTA懇親会。子どもたち保護者との距離が縮まったように感じた
6月、通級指導教室の運営を何度か見せていただいた。生徒達が落ち着いて学んでいる授業に思わず身を乗り出して感心した
7月、小学部のプールにご一緒させていただいた。はるか昔の教員時代を思い出した
8月、同窓会。学生時代の教育実習で担当した子どもが出席していた。立派な大人になっておられた
9月、中学部の宿泊学習に同行。生徒がしっかりしていて安心したのか、久しぶりの遊園地に自分の立場を忘れて楽しんだ
10月、公開研究会。高等部のカフェには度肝を抜かれた。さらに、ジョブA・ジョブBの職人ぶりにも感銘を受けた。彼らはすごい。
11月、今年2回目の教育実習。自分の学科の学生がたくましくなったと感じた。彼らもすごい
12月、埼玉大学附属特別支援学校にて教育大学協会の研究会と公開研究会に参加した。2年後当校が担当校となる。役割の重大さを身にしみて感じた
そして、本日終業式
子どもたちの前で、いつもの下手な講話をさせていただいた
みんな大きくなった
たくましくなった
今年一年、いい年だったと思えてきた
この思いを大切にし、附属の学校運営と、大学の本業と、そして少しだけなのだが震災復興に、がんばっていこうと決意した



お正月に考える 「絆」 1月10日

 皆さんはどんなお正月を過ごされましたか。今回、私の子どもの頃の正月について紹介させていただきます。
 子どもの頃、私の家は経済的には恵まれてはいませんでした。しかし、冬休みから年越し、そして正月までの期間がもっとも楽しいひとときで、今でも忘れることができません。クリスマスは今のように重要な行事ではなく、やはり新年を迎えるこの時期が、街も家の中も一番活気があったと思います。大晦日は夜更かしが公然と許されました。元日には、お雑煮(鶏ガラだしの醤油味、凍り豆腐とセリ、かまぼこ入り)、質素なおせち料理(千切りなます、ゴボウの煮物、黒豆程度)を食べました。翌2日はのっぺ汁(ナメコ、凍り豆腐、里芋、カブの味噌汁)とご飯が定番でした。父の子どもの頃、ご飯は正月とお盆しか食べられなかったそうです。それほど私の出身県の岩手は貧しかったんですね。
 子どもにとって正月料理は魅力あるものではありませんでしたが、両親双方の実家には人がたくさん集まり、祝宴が延々と続き、子ども同士が時間を気にせず遊べること、これが一番の魅力でした。父方実家に行きますと大勢のいとこがいましたし、母方実家に行きますと、年齢の近い叔父叔母が私をかわいがってくれましたから、私にとって正月はまさに天国でした。また、父方祖母は私ひとりだけを祖母の部屋に入れ、「孫の中でおまえが一番かわいい」と言って、こっそりお年玉をくれました。ただし、祖母は孫全員に同じことをしていたようですが。
 農耕社会中心だった日本人にとって、正月は単なる行事ではなく、自然の恵みに感謝する神事としての役割があったと思います。あわせて、身近な人々の結束と和を確認し維持するための、合理的なシステムでもあったと思われます。このような役割は正月だけではなく、地域の祭りすべてに言えることでしょう。
 時代は変わり、集団で楽しむ正月より個人の好みが優先されるクリスマスのほうが好まれるようになりました。でも、人と人とのつながりを確かめ、お互いの存在を認め合い、明日に向かって結束を確かめる正月のようなイベントは、行く末が不確実な現代社会にこそ、多くの人から求められているように感じます。
 さて、来月早々、当校では「すなやま祭」が予定されております。子どもたちと職員は、すなやま祭に向けて着々と準備しております。このイベントが、子どもたち、保護者、教師、そして同窓生の人間関係を確かめ、よりいっそうお互いの「絆」を深められることを願っております。
 今年は職員一同の「絆」をよりいっそう強め、保護者の皆様との「絆」を確かなもにすることをお誓い申し上げます。 



学習発表会の思い出 2月4日

すなやま祭(2月4日実施)、楽しかったです。
子どもの発達段階、クラスの実態、子どもたちの個性、そして学校の個性がしっかり取り入れられ、表現されていたと思います。
やっぱりこの子達も、みんなに見てもらって、そして認めてもらうことで大きく成長するんだと思いました。

個人的な思い出ですが、養護学校(現特別支援学校)の教員時代、何度か学習発表会を担当しました。
いろんな思い出があります。

これは、小学部4年生を担任していたときのことです。
小学校特殊学級(現特別支援学級)から4年に編入した男子児童の思い出です。
彼は、会話はある程度はできるのですが、身辺自立などの行動面に著しい遅れがありました。
よって、学習発表会の練習をしても、なかなか動きは身につきませんでした。
本番当日、やっぱり彼は出番が来ても舞台の上で動きが止まったままでした。
このことを想定し、面倒見のよい同級生の女子児童に、手を引いて舞台中央につれて出るように言ってありました。
言いつけ通りに彼女は役割を果たし、男児は中央で自分の台詞をなんとか言うことができました。
私は練習の成果が発揮できなかったことに、落胆しました。

しかし、後日、彼の連絡帳に、意外なことが書かれていました。
それは、彼の弟のことばです。

「お兄ちゃんはすごい。僕なら緊張して何も話せなくなるのに、お兄ちゃんはちゃんと台詞を言っていた!」

私は自分の子どもを見る目のなさを反省しました。
彼は自分のできることをちゃんとやってのけたのです。
そして家族はそれをちゃんと評価していたのです。

すなやま祭の発表を見ていて、いろんなことを思い出しました。
「子どものできるところをしっかり認めてあげる」
発表を見ながら、当時を思い出しました。

最後になりますが、いつものことながら、個性を引き出す先生方の創意工夫に感心するとともに、頭が下がりました。

多くの方々から見てもらうことで、子どもも大人も、成長するんですよね。



子どもに教えられる、ってこと 3月2日

高等部の学習発表会と卒業生を送る会に参加しました。
一年間でずいぶん成長し、たくましくなりました。
見ていて思わず目頭が熱くなるとともに、新任教員時代、重度の障害のある子どもの教育にかかわっていた時に、ある人から言われた一言を思い出しました。

「そんなに(障害の)重い子を教えて、何になるの?」

その方は悪意で言ったのではなく、素朴な疑問だったのでしょう。
でも、私は、このことばに対して、自信を持って反論することができませんでした。

しかし、この子らの教育に長くかかわって、わかったことがあります。

この子らは、生活する上での一つ一つの動作、仕事をする上での作業の一つ一つを大切にし、丁寧に、そして忠実に実行します。
人からよく見られようとするのではなく、自分が与えられている役割を全うすることに、持っている力を精一杯発揮しています。
すべきことをまっすぐに実行する、ただそれだけのことにひたむきに取り組んでいます。

私は、彼らのそんな姿勢から、生活すること、仕事すること、そして生きることのすばらしさを学びました。
そして、この子らの教育は、私たちにとって尊い人に育てる意義があると思いました。

もし、あの時の、あの人にあったなら、今なら自信を持って答えることができそうな気がします。

高等部の生徒の活躍を眺めながら、遠い昔を思い出してしまいました。



卒業おめでとう(平成23年度卒業式の式辞) 3月15日

 卒業生の皆さん、保護者やご家族の皆さん、ご卒業おめでとうございます。私たち職員一同、皆さんの卒業を心から祝福しております。
 小学部の卒業生、(個人名)さんは、全校の集会のときに大きな声で、しっかり話ができるようになりました。(個人名)さんは児童会会長として、号令かけなど、みんなのお手本となってくれました。(個人名)さんは、手話やVOCAを使って、たくさんの人とかかわることができるようになりました。中学部でもがんばってください。
 中学部の卒業生の皆さん、いろんな仕事ができるようになりましたね。
布封筒やハンガーラックを作れるようになりました。また、アカデミーやすなやま祭の練習を通して、大勢の前で上手に話したり、表現することができるようになりました。さらに、ひとりで生活する力がついてきたと思います。大人に一歩近づいたのです。高等部に進学しても、自分のできることを伸ばしてください。
 高等部の皆さん。皆さんは、暮らすこと・遊ぶこと・勉強することをがんばってきました。作業学習ではカフェやおしぼりの準備、バスフィズを作って、相手に喜んでもらえるようになりました。ペットボトルなどのリサイクルで、社会の役に立つ仕事を覚えました。
 しかし、4月から皆さんの生活が変わります。暮らすこと、遊ぶことは同じですが、勉強することが働くことにかわります。自分ができる仕事をすすんで実行し、みんなからほめてもらえるようになってください。できる仕事をする人、それが大人なのです。

 私は教職員、保護者の皆様にこうお話しいたしました。
 「新潟から社会を照らす光になろう」
 この一年だけを見ましても、卒業生も、日々自分を磨き、輝いてきたと思います。
 「まひるのほし」という映画がありました。知的障害のある人たちが、陶芸や絵画などの芸術活動に取り組んでいる様子を紹介したドキュメント映画です。このタイトルのいわんとしていることは、障害のある子ども達だって、一生懸命輝いている。でも、太陽というまぶしすぎる星があるから、この子達は目立っていないように見えるだけなのだと。
 しかし、間違いなくこの子達は毎日精一杯輝いていました。私にとって一年はあっという間で、子ども達が輝きながら彗星のように通り過ぎていくように感じました。実際は、通り過ぎるのではなく、絶えず私の近くにいて、一人一人違った輝きを見せてくれます。高等部の卒業生は学校から離れますが、同窓会活動だけではなく、いつでもその輝きを見せに、学校に来てください。
 私たちは、ここにいるたくさんの「まひるのほし」の美しさに気づき、支え、自分なりの人生を送ることができるよう育てる責任があります。卒業という一つの節目を迎えますが、今後とも、共に子ども達を育てていきましょう。

卒業式、「はなむけのことばより」(一部)




<平成24年度>

お祝いのことば(平成24年度入学式式辞) 4月9日

 新入生の皆さん、そして、保護者の皆様、ご家族の皆様、ご入学誠におめでとうございます。私たち職員、そして在校生は、皆さんが入学するのをずっと楽しみにしておりました。

 小学部に入学した3名の皆さん、入学おめでとう。毎日元気に学校に来てください。先生方も、お兄さん、お姉さんも、みんなで皆さんを待っています。
 中学部に入学した6名の皆さん、入学おめでとう。皆さんの隣、後ろ、前をよく見てください。そこにいるのが皆さんの仲間、同級生です。これからこの6人で学校生活を送るのです。お互いの名前を覚え、早く仲良くなってください。
 高等部に入学した10名の皆さん、入学おめでとう。今日から皆さんは高校生です。高等部での生活は、社会に出るための大事な勉強や活動がたくさんあります。今はまだ「社会人」と言われてもよくわからないと思いますが、高等部の勉強をがんばって、立派な社会人をめざしてください。そのためにも今日の入学式の今の気持ちを忘れないでください。

 保護者の皆様、お子様のご入学おめでとうございます。校長として皆様にお伝えしたいことをお話しします。
 私は、当校が大事にしていることは次の三点だと思います。
 第一、それは働く力を育てることです。私たちの人生は、暮らす、働く、遊ぶの三要素で構成されています。働く力はその一つです。当校では小学部から高等部まで、系統的段階的に働く力を育てる教育を実施しております。学校だけではなく、家庭でも取り組んでいただくことが大切ですので、お手伝いや地域の奉仕活動を、お子さんと一緒に実行していただけないでしょうか。自分ができる仕事をひたむきに成し遂げる人が尊いと思います。
 二番目は、大学と学校との一体化です。当たり前のことですが、当校は大学の附属校です。大学教員が教育実践や研究支援だけではなく、教育相談などのセンター的役割にに積極的にかかわっていきます。教員だけではなく、学生も一緒に活動します。学生は教育実習、行事、普段の教育活動にもできるだけ参加し、子どもと一緒に楽しみ、将来を担う教員になって欲しいと願っております。子どもたち、保護者の皆様、教職員、大学教員、そして学生が、附属という家族を構成できるようにしたいものです。
 三番目は、一人一人を大切にする教育の保障です。その子が持っている力を最大限に伸ばす教育をめざします。その子ができることをほめて伸ばし、自分はできるという自己肯定感を育てることを、最も大切にしていきます。子どもだけではなく教師自身も、与えられた職務をひたむきにこなし、この学校で仕事ができてよかったと思ってもらえる、そういう職場を作っていきます。もちろん、保護者の皆様の当校に対する期待や要望を大切にし、ともに学校を作っていく所存です。そこで、保護者の皆様におかれましては、当校の教育活動に積極的にかかわってくださるよう、心からお願い申し上げます。
 最後になりましたが、本日の入学式にご臨席を賜り、新入生の入学を祝福していただきましたご来賓の皆様、誠にありがとうございました。新入生19名を含めた本年度の附属特別支援学校児童生徒66名に、今後とも変わらぬご指導、ご支援を賜りますようにお願い申し上げ、私の式辞といたします。



新潟の街を歩くと 5月1日

個人的な体験で恐縮です。
私は昭和52年から55年まで、大学生として新潟に暮らしました。
教育学部が旭町にあり(現在の保健学科)、附属養護学校ができたばかりでした。
当時は古町も本町も活気があり、大勢の人が行き来しておりました。
大学の授業の合間に古町や本町をぶらつき、喫茶店で次の授業までの時間つぶしをしたこともあります。

学生時代に過ごした街で仕事ができることは、とても幸運なことだといわれたことがあります。
確かに、学生とはいえ大人ですから、街のことを隅々まで熟知して鮮明に記憶にあるために、30年後の今歩いてみて、その時の記憶が鮮やかによみがえります。
現在も歩いている時に、何の考えもなく生きていたあの時の自分が、ぶらぶら歩いているように感じることもあります。

そういう中途半端な自分にけじめを付けてくれたのが、教育実習だったような気がします。
昭和55年6月に実習生として2週間半(当時は土曜日も授業なので15日間)、子どもたちと生活しました。
何事も初めてで、戸惑うどころか、一日の生活を送ることだけで必死でした。
生きることに必死になるなんて、初めての体験だったと思います。
でも、この実習を終えて、障害児教育で生きていくことを決心しました。
毎日の生活の中で、生きていくために必要な一つ一つの活動を、ひたむきに学んでいる子どもたちの姿に、この仕事のすばらしさを感じ取ったからだと思います。

新潟の街を歩くと、当時担当していたお子さんの家を見かけることがあります。
もう立派な大人になっているんでしょう・・・

新潟の街を歩く時、一瞬だけでも、私は、当時の自分に戻ったように感じます。



現場で求められる教師の実践力をいかに育てるか 5月26日

先日、日本教育大学協会北陸地区会評議委員会が新潟で開催されました。
私は今年度から評議員を務めることになり、はじめて出席しました。
議題を話し合う中で、「教員をめざす学生に現場で求められる教師としての実践力をいかにして育てるか」ということが話題になりました。
ある委員は、実践力を「教科の専門性と指導法、そして子どもへの対応」と定義しておられ、もっともだと感じました。

さまざまな委員の発言を聞いているとき、私自身、どのように実践力を高めたのか、謙虚にふり返ってみました。
私は自ら特殊教育の道を選んだのですが、大学で十分学習したわけではなく、子どもとのかかわりも特殊教育の専門性も、かなり未熟でした。
最初に担当したのが重度重複障害でしたが、専門的なことが全くわからなかったので、勤務を終えてから必死で勉強しました。
4年間教員をし、それから大学院で学びました。
その間、家庭を持ち、社会人として、家庭人として、そして地域の一員として、大人としての振るまいができるようになったと思います。
何とか「自分は教師です」と自信を持って、自己紹介できるようになるまでに10年ぐらいかかったような気がします(あるいはそれ以上かもしれません)。
自慢話みたいになりましたが、言いたいことは、「実践力を身につけるためには時間がかかるし、専門的な知識の積み上げだけではなく、さまざまな程度の経験が必要だ」と言うことです。

しかし、そういう「言い訳」は、社会に対して、何より、保護者や子どもたちに対して、通用するものではありません。
「私はまだ一人前の教師ではないので、大目に見てください」なんて、許される説明ではありません。
では、どのようにすべきなのでしょうか。

私は、学校という組織が、ひとりひとりの子どもの指導に関わることが重要だと考えます。
多様な経験や能力、さまざまな年齢(教員としての経験)の教師集団が、それぞれのウリを生かし、10名の力が15名、20名分になるよう、しっかりした組織を作ることだと思います。
ひとりの子どもの教育を、すべての教職員が責任を持って関与し、協働作業の精神で、お互いのウリを生かした役割分担をし、実践していくことです。
このことはインクルーシブ教育を実施する上で必要なことだと言われております。

これも自慢話に受け取られるかも知れませんが、当校は組織としてひとつにまとまり、ひとりの子どもの教育に全員が責任を持つという姿勢が確立されていると感じます。
研究会議や校会を始めとするさまざまな会議の定期的な開催、職員専用のメーリングリストでの情報共有、何より、日常生活の中での直接のコミュニケーションが、しっかり確保・維持されております。
これからも、この結束を大切にし、学校目標の達成に向けて邁進していきたいと思っております。

5月26日は運動会でした。
組織力が成功につながったと思っております。



サービス業をあれこれ考えて 6月18日

学習指導要領を見ますと、「主として専門学科において開設される各教科の目標及び内容」の中に、「流通・サービス」「福祉」が設定されています。
当校では、ご存じのように、物流関係やクリーニング、喫茶、介護などの職種を取り入れております。

サービスの意味を調べてみますと、「売買した後にモノが残らず、効用や満足などを提供する」とあります。
知的障害のある子どもに、「生産されたものがないにもかかわらず、それが結果として(対価として)報酬がもらえる」という抽象的な現象を教えることは難しいと感じます。

しかし、この子達は相手に喜んでもらうことはちゃんとわかります。
というより、障害のない子ども以上に、多くの人に喜んでもらえることを、自分自身の幸せと感じていると思います。

ところで、私たち大人は、相手に喜んでもらうことを目的に、自主的に何かに取り組んでいるでしょうか。

先日、「傷ついた日本人へ」という本を読みました。
東日本大震災で被災した日本人、そして全ての日本人に対して、ダライラマ14世が語ったことがまとめられております。
この中で印象的だった教えがいくつかあります。
「他人への愛情が自分の幸福になる」という考えは、特に心に残りました。
相手が喜んでくれることをすすんで行うことが、心の満足感になり、結果として自分自身の幸せにつながるという教えです。
ものや相手からのもてなしによる幸福は、それらが提供されなくなればすぐにも感じられなくなるが、自分が相手のために(報酬目的ではなく)してあげた結果は、ずっと心の中に残り、その幸福は永続的なものだ、と解釈しました。

一般的には、ものや名声を得ることが幸せだと思われていますが、このような実践によって、本当の幸せが得られるものなのですね。
今までの自分自身の生き方を、少しだけですが、見直すことができました。

高等部の研究授業を参観している時、サービス業についてあれこれ考えを巡らしていて、最終的に幸福について考えさせられることになりました。
私は、今までと違った見方で子どもたちの学習する姿を見ることができそうだと感じています。

参考にした図書
ダライラマ14世(2012) 「傷ついた日本人へ」新潮新書。



トップの責任 7月23日

特別支援教育の推進に必要なこと、それは校長のリーダーシップといわれています。
校長が自ら特別支援教育の意義を認め、学校の重要課題と位置づけ、職員に決意を示すことが求められます。
実際には、校長がビジョンを示し、具体的な取り組みの主体は特別支援教育コーディネーターに任せることと、コーディネーターに協力することを職員に伝えることだと考えます。
校内委員会の活動内容一つ一つにまで口を出すことは、必ずしも必要ないのではと私は考えます。

先日、県のある会議で、ある委員が次のように発言されました。
「施設長や理事長が、発達障害についてどれだけ理解しているか、このことが発達障害の理解啓発に重要である」

もっともなことだと思い,私はつい次のような発言しました。
「県のさまざまな部署のトップが発達障害について理解しているか、もっとつき詰めていえば、知事がどれだけ理解しているか、それが聞きたい」

これに対して県の担当者は、知事が発達障害について十分理解していると答弁されました。
担当者のしっかりしたお答えを聞き、安堵いたしました。
首長が誤った認識を示せば、とんでもない施策が展開される可能性があるからです。

トップがすべての事柄に熟知することは望ましいのですが、現実的ではありません。
しかし、少なくとも基本的なことを理解し、部下を信頼し、上下のコミュニケーションを良好にし(たくさんの人の意見に耳を傾ける)、決断することが重要と考えます。

なんだか偉そうな内容になってしまいました。
年齢的にも、立場的にも、このようなことを自分のこととして、しっかり心に刻みたいと思います。

本日は一学期の終業式でした。
しばらく子ども達の顔が見られなくなります。
この機会に、トップの責任とは何かを、じっくり考えたいと思いました。



第45回全国国立大学附属学校連盟校園長会研究会 平成24年度日本教育大学協会附属学校連絡協議会校園長分科会 8月28日

標記大会が、8月23日・24日に大分で開催されました。
この大会に参加してのメモと感想を述べます。

初日の文部科学省教員養成企画室の君塚室長補佐が「附属学校を取り巻く諸課題について」講演されました。
附属学校の取り組み状況として、ICT機器の利活用と整備、教育実習の充実・強化、理科教育の充実、特別支援教育の充実、外国人児童生徒への支援、一貫教育の強化、附属学校をモデルとした指導方法の実践を指摘されました。
今後望むこととして、政策的課題へ取り組みや地域のモデルとなる教育研究の推進、教育実習の拠点校としての役割、大学との連携、地域との交流、適切な学校運営(特にリスクマネジメント)を話されました。

とはいえ、うちの附属特別支援学校では、これらの項目の多くに、積極的に取り組んでいると感じた次第です。
今後も今までの実績を大切にし、さらなる向上を図りたいものです。

大事なことは、単に実践するだけではなく、外に向けて積極的に発信することだと思いました。
他者からの評価を待つのではなく、自分たちの取り組みの成果を、アグレッシブに訴える必要性を改めて感じました。

二日目には、3校の特別支援学校の取り組みが報告されました。
熊本大学では、熊大方式授業作りシステムを紹介されました。
これは、Person Centered Planning(個人を大切にした計画の作成と実践)に従い、子どものニーズに基づいて支援計画をまとめ、個別の指導計画を作成して、日々の授業に生かす一連の流れ(関連性)を明確にしていると感じました。
支援計画→指導計画→指導案の流れが、授業に生かされているということです。

今回の授業研の指導案を拝見しますと、うちの実践もこの理念と同じような手続きで具体化されていると思いました。

愛媛大学では、働く生活の実現というテーマで、平成19年度からの取り組みと、卒業生を大学の清掃作業員として継続的に雇用する事業について紹介されました。
具体的には、
・附属学校退職教員を支援者として環境整備室室長として再雇用する
・用務補佐員としてリーダー格の卒業生を抜擢し、教育学部清掃チームを結成する
・彼らは就労継続支援事業所(B型)に籍を置く

実践の結果、評価は上々で、「委託事業者よりきれいになった」「学生のマナーが良くなった」などの感想が聞かれたそうです。
現在は法学部担当チームと農学部担当チームがあるそうです

驚かされたことは、
・有期契約職員で、1年ごとの更新であるが、事実上終身雇用が保障されている
・社会保険などの保障が大学職員並みである
ということです

なぜこのような条件を大学当局が認めたか、参加者全員が関心を持ちましたが、同じように終身雇用が認められている熊本大学附属の校長によると、
・副学長の理解があった
・そのために、行事への招待状や案内を積極的に「子どもの側から」おこなったこと
が、有効だったのではないかとのことでした

やっぱり、積極的な広報活動が重要なんですね

もちろん、日々の実践を地道に取り組むことが最も大切であることはいうまでもありませんが、積極的な広報活動も大切ではないかと思います。



教育者の専門性について考える−個人の体験から 9月19日

全く個人的な体験から思ったことを書きました。

先日、入院・手術の介護を経験しました。
思ってもみなかったことだけに、本人以上に不安になり、そして慌ただしい日々を送りました。
今は状態が落ち着いていますので、こうして冷静に文章を書けるようになっております。

私自身は介護の経験はほとんどなく、教員時代に重心病棟で担当していた子どもの食事や排泄の世話ぐらいです。
今回体験してみて、介護を受ける人のペースにあわせて対応する難しさを感じました。
大学の授業などで介護について話す機会も多いのですが、教える側もこのような体験は必要だと思いました。

もう一つ感じたことは、医療関係者の専門性の高さです。
当たり前のことですが、医師や看護師は患者の病態や変化、見通しについて、きわめて詳細に説明し対応してくれました。
そのときは思わなかったのですが、あとになって、「医療関係者の専門性と教育関係者の専門性、どっちが厳しく問われているだろうか。それはやはり医療だろう」と、ぼんやり思いました。
なぜ教育関係者の専門性が、医療より厳しく問われないのか。
おそらくそれは生命に直接関わるか、関わらないかの違いではないかと思います。
そして、私はさらに、大学院の恩師のことばを思い出しました。

「医者が失敗すると患者は死ぬ。企業経営者は失敗すると破産する。教育者の失敗は気づかないほどゆっくりとあらわれる(以下略)」

障害児教育に対してきわめて厳しい姿勢を示してくれた方だけに、辛辣な表現ではありますが、考えさせられる一言です。
なぜなら、さまざまな教育問題で、直接生命の危機にさらされている子ども達がいるからです。
私もそうなのですが、教育者は教育現場の現状を、もっと深刻にとらえるべきではないか、そう思って複雑な気持ちになりました。
「教育者の失敗が、瞬時にあらわれる可能性がある」という認識が必要ではないかと。



公開研究会謝辞 10月22日

公開研究会に参加の皆様、助言者・指導者の皆様、来賓の皆様、そして講演会講師の石塚先生、本日は誠にありがとうございました。
第35回公開研究会が無事終了いたしました。

今回の公開研究会に参加してくださった方々は、総勢約440名でした(記録更新)。
これだけたくさんの方々に日頃の実践を見ていただいたことは、子どもたちや教職員にとって、なにものにも代え難い貴重な体験だったと思います。
指導者・助言者の先生のみならず、皆様からのご意見やご提案を大切にし、さらに充実した実践ができるよう、これからも努力を重ねて参ります。

最後になりましたが、日頃から附属の教育を支えてくださっている皆様・学生の皆さん、保護者の皆様、そして教職員の皆様、本当にありがとうございました。
これからも今までと変わらぬご支援を、よろしくお願いいたします。

<講演をお聞きして>

「特別支援教育の動向と、今、私たちに求められる授業とは〜インクルーシブ教育システムの構築の時代を見据えて〜」

 石塚先生のご講演では、特別支援教育の現状と課題、文部科学省の事業、学習指導要領、障害者制度改革の動向、そしてインクルーシブ教育という方向性と特別支援学校で取り組む教育と授業の在り方について、データや実践例をふんだんに提示され、具体的にわかりやすく示していただけました。

 今後の特別支援教育は、大きな変革期に入るのだと認識しました。そしてそれは「障害者の権利条約」という、グローバルスタンダードに従うためであり、そのために国をあげて障害のある人の権利を保障する制度改革を実行するのだと思いました。昨年8 月の障害者基本法の改正はその大きな改革であり、私自身はじめて内容を知った時は、今までの障害者施策そのものが大きく変わることを予感しました。そのキーワードは、共生社会の実現だと思います。

 では、私たち特別支援教育に携わるもの、特に、特別支援学校で専門的な教育を実践するものは、どのようなことを認識し、実行すべきでしょうか。この度の石塚先生のご講演から、いくつものポイントが見えてきました。
 一つ目は、インクルーシブ教育の実現を前向きに受け止め、わが国におけるインクルーシブ教育の在り方を積極的に議論することです。インクルーシブ教育の在り方は多様で、国によっても、地域によっても様々なやり方があります。他国の模倣ではない、わが国独自の、そして全ての子どもたちが共生社会で自己実現できる教育システムを構築することが大事だと思います。
 二つ目は、特別支援学校のセンター的機能の充実です。インクルーシブ教育が展開すれば、義務教育段階の児童生徒は小中学校に移行する可能性があります。小中学校に障害のある児童生徒が多く在籍すれば、それだけ支援学校のセンターとしての役割が期待されます。指導の個別化と個別計画、キャリア教育、自閉症の特性に応じた指導法など、通常の学級における特別支援教育の実施に貢献できることはたくさんあります。教師自身専門性を高めることが、学校のセンター機能を高めることにつながるのではないでしょうか。
 三つ目は、通常の学級における特別支援教育の充実のために、知っておくべきことです。それは、学習のユニバーサルデザインと合理的配慮だと考えます。学習のユニバーサルデザインとは、障害の有無にかかわらず全ての子どもの学びを保障するという理念であり方法論です。現在、多くの学校で実践が進んでいます。しかし、障害のある子どもは学習のユニバーサルデザインだけでは、障害のない子どもと同様の学習の権利が保障されない場合があります。彼らの学ぶ権利を保障するための合理的配慮、特にテストを受ける上での合理的配慮について、教員は具体的な内容を理解し、これが「特別扱い」でないことと、合理的配慮をしない場合差別につながることをしっかり認識すべきです。

 最後に、これからの特別支援教育の実施に向けて、個人的に重要だと思うポイントを 4つお話しいたします。
 第一には教育内容の説明責任の徹底です。これから提供される教育の目的と内容について、保護者本人に十分説明することが必要です。具体的には、個別の教育支援計画・指導計画の作成と実行・評価です。二つ目は信頼性の高い指導法の採用です。勘や経験だけに頼るのではなく、有効性が確かめられている指導法や指導プログラムを採用することです。三つ目はエビデンスに基づく実践です。子どもが成長した、できるようになった、自分の指導方法は有効だという証拠を示すことです。そして、これらを実現しようとする教師の意欲、というより、子どもへの深い愛情が大切であることを最後に申し添えます。



教育実習が終わりました 11月2日

10月22日から11月2日まで、大学から23名の教育実習生がきました。
考えてみれば、わずか10日間で子どもの特性を把握し、授業をしなければならず、改めて教育実習の厳しさを感じました。
しかし、実習生は、若さと経験のすくなさからの思い切りの良さ(?)から、すぐに子どもとの生活に慣れていました。
自分の特性の中で、今まで出し切れていなかった自分を出していた人も多く見られました。

そういう純粋な姿に、子どもたちは素直に応じ、一緒に遊んだり学んだりしたと思います。
実習生の皆さんは、この感動を忘れないで欲しいものです。

研究授業の反省の場で私が話したことです(一部修正)。

教育実習はチャレンジの場、ゆえに失敗はあり得ないのです。
うまくいかなかったりできなかったりしてもそれば失敗とは言いません。
次に同じ後悔をしないよう、どうすればよいのかを学ぶことに価値があると思います。

実習では、特別支援教育の授業の形(かた)を学びましょう。
附属特別支援学校の先生方の授業は、お手本とすべき形です。
テクニックだけではなく、子どもに向き合う姿勢など、しっかり学んでください。
形を覚え、今後経験や研修を重ね、自分の形を持ってください。
基本なき者にオリジナリティーはあり得ません。

これから教師をめざす学生達が、一回り成長して大学で意欲的に学ぶことを願っております。



附属の使命 12月3日

10月の公開研究会終了するやいなや、教育実習や介護等体験など、全校で取り組む活動に終われてきましたが、ここに来て幾分ゆとりが出てきているように感じます。
小学部では附小との交流学習、中学部ではアカデミー賞に向けての映画作り、高等部ではインターンシップなど、各学部独自の取り組みが続いているようです。

一方、大学からは24年度計画の進捗状況と25年度に向けての計画の提出を求められております。
附属は地域のモデルになることはもちろん、国レベルの教育に提言するだけの活動を期待されていますから、校長としても、けっこうプレッシャーを感じます。
今年度は通級指導教室と生徒の原籍校とをつなぐ地域コーディネーターの導入や、大学と通級をつなぐWebカメラの設置、高等部では高齢者施設に協力をいただいての福祉の授業、中学部では外部機関で販売できる製品作り、小学部では働く力の育成を取り入れた生活単元学習など、独自の取り組みをしてきたと、私は評価しております。

地域のモデルになることは、「附属だからできる」(ということは、附属以外の一般校ではできない)ことを意味しません。
確かに、附属だからできる活動が多いのは事実ですが、そもそもモデルというのは、モデルを構成するいくつかの要素を参考にしていただくものと考えます。
ですから、附属のやり方をそっくりそのまま実践していただくのではなく、手続きとか、教示の仕方とか、教材とか、何か参考になる情報を活用していただくを目的としていると私は考えます。

そこで、地域のモデルとして評価していただくために、地域の皆様のニーズをしっかり受け止め、附属の実践のいくつかの部分を一般校に使っていただけるように、これからの活動を展開していきたいと思っております。



自分の意思を伝えよう 1月4日

 近年,障害のある人を対象とした法整備が進んでいます。平成23年に障害者基本法の改正,24年は障害者虐待防止法の施行,そして平成25年度には,障害者総合支援法施行の予定となっております。その内容についてくわしくは述べませんが,知的障害のある人の動向として,次のことが気になりました。それは,知的障害者福祉法に市町村の成年後見等の体制整備の努力義務を規定していることです。つまり,知的障害のある人の意志決定の在り方を検討するということでしょうか。
 知的障害のある人の自立にとって,自分の人生や生活を自分の意思できめること,つまり自己決定は,もはや当たり前のことです。しかし,自己決定と言えば,自分できめることだけが突出して理解されているような気がします。じつは,自己決定のためには自分の考えや気持ちを相手に訴えるという自己主張,障害者である自分がどのような権利で守られ,どのような福祉サービスが受けられるかという権利擁護(アドボカシー),そして,その権利を自身で守ること(セルフアドボカシー)など,さまざまな要素があるのです。特に,知的障害のある人の場合,自分の意思や権利を訴えることについては,弱い傾向があり,周囲からもあまり認められていないのではないでしょうか。「知的障害のある人は訴えることが苦手なのだから,周りが察してやってあげることが必要」という考えは,間違っています。
 これからは,知的障害のある子どもも,当たり前のように自分の意思や気持ちを訴えられる時代になるべきです。そのためには,意志決定の前に支援する大人が情報をしっかり収集し,子どもにわかりやすく教え,決定のための選択肢と選択した結果を具体的に示し,自己の利益になり,そして周囲に受け入れられる決定ができるようにします。
「おやつが欲しいときは,(ちょうだいの身振りを示し)こうするんだよ。そうするとおやつがもらえるよ(おやつを示す)」「黙っておやつをとると(身振りでやって見せ),おやつはもらえないよ(身振りで禁止を示す)」
 このようなやりとりが必要なのです。子どもが自分で意志決定できるようになるためには,学校教育の中でも積極的に指導支援することが必要です。当校でも,子どもの自己決定力を強くしてあげられる教育を,今年も大事にしていきたいと思っております。



小学部と中学部のお正月行事 1月14日

本日、小学部と中学部では恒例のお正月行事が行われました。
小学部は新年会という名称で、獅子舞を見たり、コマを作ったりしました。
突然現れた獅子舞を怖がる子もいましたが、子どもたちには思い出に残るよい体験だったと思います。
中学部は、すなやまの家で餅つき大会をしました。
子どもたちだけではなく保護者の方々も、杵をもって、ちから一杯餅をつきました。

考えてみますと、お正月は普段会えない人たちとも一緒に同じ活動をし、同じものを食べ、時間を共有しながら、新しい年の始まりを祝うという、大事な行事です。
ですが、近年では、この「みんなで」という条件が好まれないのか、伝統的なお正月のスタイルが失われているように感じます。
そんな中、小中学部で、子どもと保護者の皆さんと教員とが一緒になって、伝統的な活動をともに楽しむことができたことは、大変ありがたいことだと感じました。
このような共通体験こそが、子どもたちだけではなく大人についても、充実した生活・生き方につながっていくのだと思います。

今年一年が、子どもたちや保護者の皆さんにとって、よい一年であることを祈らずにはおれませんでした。



学習発表会の思い出 2月5日

本日すなやま祭が、成功裏に終了しました。

普段の学習の成果を舞台発表にアレンジし、それぞれの子どもの個性と自主性を大切にしたすばらしい発表だったと思います。
いつもながらに先生方の演出における創造性の高さには、頭が下がります。

小学部では、「しらゆき妻と6人の小人」(1組)、「2組忍者、すなやま城のお宝を探せ」(2組)、「新幹線で東京に行こう」(3組)の3つの発表がありました。
中学部では、「ももたろう〜ピーチでピースなももがたり〜」(1年生)、「ラッキーシックス〜6人の探偵物語〜」(2年生)、「タンブリング〜おれたちの空へ〜」(3年生)の3つの発表がありました。
高等部は、「KTBファッションコレクション2012〜社会人を目指して〜」の発表がありました。

卒業生も歌の発表をしてくれました。
大勢駆けつけてくださり、圧巻の発表でしたね。

午後からは、働く学習体験コーナーがオープンし、中学部スペースでは、ペーパースタンド作り、フォトフレーム作りが体験できました。
高等部スペースでは、クリーニング、おしぼり巻き、缶つぶし、浴用雑貨などを体験できました。
どのコーナーも、たくさんの人であふれ、賑わっていました。
これらを体験して、校内通貨を獲得し、glad(カフェ)でコーヒーとクッキーをいただくことができたようです。

最後はみんなで合唱して終わり、とても充実した一日でした。
保護者の皆様、地域の皆様、卒業生の皆様、学生ボランティアの皆様、ほんとうにありがとうございました。

<蛇足>
学習発表会などのイベントを見て、やっぱり昔を思い出します。

私が小学部3年生を受け持っていた時のことです。
青山君(仮名)という軽度知的障害の男の子がいました。
理解力や作業能力に優れていましたが、母親が失踪し、程なく父親も県外に出て行くなど、家庭に恵まれない子でした。
そのためか、授業参観や行事など保護者が来校する時になると、きまって同級生にじゃれたり授業を妨害するなどの問題を起こしました。
1,2年の学習発表会も、練習や予行ではすばらしいできだったのに、当日は乱れに乱れまくり、さんざんな結果だったそうです。
「おじいさんが見に来ているから」と嘘を言って納得させようとしても、全く効果がなかったとのこと。
「荒れるから、気をつけた方がいいよ」と、前の担任から言われました。

しかし、彼の気持ちは、痛いほど理解できました。

この時の学習発表会では、彼は準主役でした。
私は本番の前日、青山君を個別に呼んで言いました。

「明日、お父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも来ないよ」

彼は黙って聞いていました。覚悟していたのでしょうか。
「どうする?2年生の時のように、ふざけたり、舞台に寝転んだりする?」
青山君は小さい声で「いやだ」と言いました。
「できるよね、ちゃんと。誰も見に来なくても、できるよね。そのかわり、先生達がしっかり見ているからね」
青山君は私の顔を見て頷きました。

当日、彼は練習通り、いえ、練習以上に立派な演技ができました。
私と副担任は、最大限のことばで彼をほめました。
実は、体育館の隅に彼のおじいさまがきてくれていたようで、家に帰ってから、おじいさんからもほめてもらったそうです。

学習発表会以降、青山君は他の親がきている時でも、乱れることは全くなくなりました。

一つのイベントを乗り越えることで、子どもたちは確実にたくましくなります。
その時は気付かないかも知れませんが、どの子にとっても、大きな目標を成し遂げたことは、内面の変化を起こし、一回り大人になるはずです。

今回のすなやま祭を成功させたことで、うちの子ども達も一回り大きくなったと確信しております。



修学旅行のお供で感じたこと 2月25日

2月22日、小学部3組(5,6年生)の修学旅行の引率で、東京スカイツリーに行ってきました。
わずか一日の旅程でしたが、子どもたちの成長した姿をしっかり見ることができました。

新幹線に乗ったり、人混みのなか駅構内を歩いたり、満員のバスに乗ったり、順番を待ったり、混雑したレストランで食事をしたり買い物をしたり、トイレに行ったり友達を待ったり、先生の指示で動いたりと、ずいぶんたくさんの「課題」がありました。
未経験の「学習の場」、しかも「環境の構造化」などあまり配慮されていない特殊な状況で、しかも刺激が過剰にある中、「課題」は次々にやってきます。

そんな中でも6人の子どもたちは難なく「課題」をこなしていきました。
「こんな状況、ストレスでも何でもないよ」とでも言いたげでした。
もっとも立派だと思うことは、スケジュールに従って同一行動をとりながらも、新幹線や展望デッキ、水族館などで、しっかり楽しむことができたことです。
修学旅行は学習の総まとめとはいえ、楽しめなければ意味がありません。
それぞれの好みの違いはありますが、それぞれの子どもたちは、自分なりにしっかり今回の旅行を楽しんだことは間違いありません。

失礼ながら、普段学校で見る姿にはまだまだ不安を感じることがありましたが、今回のしっかりした姿を見て、この子達は間違いなくひとつ上の段階に成長したのだと思いました。
そして、学校などの日常から離れた場で、学校生活で身につけたことがちゃんとできるかどうかを挑戦させてみることも、大事な学習なのだと思いました。



はなむけのことば(平成24年度卒業式式辞)  3月14日

 卒業生の皆さん、保護者・ご家族の皆さん、ご卒業おめでとうございます。私たち職員一同、皆さんの卒業を心より祝福いたします。

 小学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。皆さんは、友達と一緒に係の仕事をしたり、一緒に仲良く遊んだりしました。また、給食や掃除などの仕事を、自分から進んでできるようになりました。そして、先生のお話を聞くことはもちろん、自分から進んでいろんなお話ができるようになりました。先月の修学旅行は校長先生も一緒に行きましたが、皆さんがとってもしっかりしているので、とても感心しました。中学部に行ってもがんばってください。

 中学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。中学部の皆さんは、この3年間で、自分に自信をもち,自分の思いを表現することができるようになりました。さらに、友達のがんばっている姿をよく見ていて,「かっこいいね」「すごいね」「さすがだね」と、友達に温かいことばを掛ける姿がたくさん見られるようになりました。
 校長先生も、どんなときでも仲間を思いやる心とチームワークの良さは、心から感心し、すごいなあと思っています。このことは高等部に進学して、新しい仲間ができても大事にしてください。

 高等部の皆さん、卒業おめでとう。皆さんの学級は、「ありがとう」ということばが行きかう「思いやりのある学級」でしたね。いつも笑顔が絶えない、皆さんの明るい笑顔が印象的でした。
 皆さん、高等部の思いでは何ですか。皆さんはたくさんの行事や学習をこなしてきましたが、何度も同じ作業をしたりうまくいかないことがあったり、つらいこともたくさんあったと思います。でも、みんなでひとつのことを成し遂げたとき、みんなで喜び合ったと思います。この感動をぜひ忘れないでください。仕事は、あきらめずに最後まで続けると、必ずいいことがあるのです

 保護者の皆様、お子様のご卒業、本当におめでとうございます。それぞれ人生の次の段階に進むことになります。学習を続ける人にも社会に出る人にも、共通する大切なことがあります。それは、「毎日こつこつ努力する」ということです。
 今の社会は予測できないこと、理不尽なこと、不合理なことがたくさんあります。特に、障害のある人を取り巻く厳しい環境については、私自身矛盾を感じることが多くあります。文句や不平を言いたくなることが多々ありますが、こういうときこそ自分が与えられた仕事や役割を地道に成し遂げることが重要だと思います。そういう姿が、私は尊いと思います。毎日こつこつ努力する姿を、ぜひ子どもたちに見せてください。私たち職員も、そのように努力してゆきます。




<平成25年度>

お祝いのことば(平成25年度入学式式辞) 4月9日

 新入生の皆さん、そして、保護者の皆様、ご家族の皆様、ご入学誠におめでとうございます。私たち職員、そして在校生は、皆さんが入学するのをずっと楽しみにしておりました。

 小学部に入学した皆さん、入学おめでとう。一緒にお勉強するお友達と握手をしましょう。早く仲良くなって、毎日元気に学校に来てください。先生方も、お兄さん、お姉さんも、みんなで皆さんを待っています。
 中学部に入学した6名の皆さん、入学おめでとう。今日から中学生ですね。中学部の生活は楽しいですよ。早く同級生の名前と先生の名前を覚え、生活や仕事に必要な勉強をがんばりましょう。
 高等部に入学した10名の皆さん、入学おめでとう。今日から皆さんは高校生ですね。これから始まる高等部での生活は、仲間との語らい、社会人としての勉強、そして仕事への準備と、いろんな経験をします。そのすべてが楽しく、ワクワクする経験ばかりだと思います。青春時代を大いに楽しんでください。
 保護者の皆様、お子様のご入学おめでとうございます。校長として皆様にひとつだけお願いがあります。それは、「お子さんができることやできたことを認め、ほめる」ということです。
 とかく親というもの、それは私も同じなのですが、できていることは当たり前と思い、できていないことを気にしがちです。「どうしてハンカチを忘れたの」ではなく、「連絡ノートとティッシュを忘れずに持っていったんだね」のように、まずはできたことやできていることを評価しほめることです。その上で、「今度は忘れずにハンカチを持っていこうね」と、前向きになれることばをかけてください。このことが、子どもの能力を伸ばす最も大切な親の役割だと思います。
 そうはいっても、できないことにじれったさを感じることもあると思います。そのときには子どもではなく、私たち職員に要望としてお伝えください。私どもは保護者の願いを大事にし、子どもの将来を一緒に考え実行していきます。
 最後になりましたが、本日の入学式にご臨席を賜り、新入生の入学を祝福していただきましたご来賓の皆様、誠にありがとうございました。附属支援学校は今年十月に大きな大会をひかえております。このような名誉に奢ることなく、日頃の実践を大事に積み上げていく所存でございます。今後とも変わらぬご指導、ご支援を賜りますよう、お願い申し上げ、私のお祝いのことばといたします。



授業のユニバーサルデザインの実践に求められること 5月1日

「発達障害の子どもだけではなく、すべての子どもにとってわかりやすい授業、すべての子どもが参加できる授業」として、多くの先生方の支持を集めている授業のユニバーサルデザイン(以下、授業のUDと略す)。
先日、この授業のUDに取り組んでいる方とお話ししたときのことです。
その方は、これから授業のUDに取り組む先生向けに、誰でもできる授業のUDの条件もしくはチェックリスト(マニュアル)を作成する計画をお持ちでした。
確かに、そういう支援ツールがあれば、初任の先生でも自信を持って授業のUDができます。
でも、計画には肝心なことが欠けていると思いました。
それは、以下のことです。
授業のUDに基づく授業を通して子どもの学力が向上しなければならなことと、子どもの実力アップが確認されなければならないことです。
さらに、その授業がたとえ授業のUDの条件を100%満たしていたとしても、評価されないだろうということです。
繰り返しますが、子どもが変わったという証拠を、授業を通して示すことが絶対に必要なのです。

話は変わりますが、今年度の当校の研究の目的は次の通りです。
「子ども一人一人が自ら意欲的に課題に挑戦し続け、自己実現に向かうことができるように、支援の方針に基づく適度な学習課題の設定方法、指導・支援を中心とした授業のあり方を追求する」
4年目となる今年の目標として、わかりやすくきわめて妥当な目的だと思いました。
私は、研究者としての立場から、この目的を達成するためにすべきことを以下のように解釈しました。

「@反応や行動の自発性と持続性、A課題や学習の獲得もしくは到達基準のクリア、もしくはレベルアップ、B子どもの達成感の向上もしくは獲得
これらは測定可能で、@からBまでのデータを示すことが、授業の有効性を証明することになる」

研究会議で、このことをお話しし、先生方の理解を得られたと思いました。

当たり前のことですが、良い授業とは子どもの学びを保障し、子どもの成長を促す結果をもたらすものであり、その事実を確認することが求められます。
通常学級での教科教育でも、特別支援学校での領域教科を合わせた授業でも、これらのを忘れてはいけないと思います。



運動会 5月25日

本日、平成25年度の運動会が無事に終了いたしました。

私事で恐縮ですが、小学生の頃の運動会の思い出です。
運動会当日は、興奮からか、ずいぶん早い時間から目が覚めました。
足が速いわけでもなく、みんなから活躍を期待されているわけでもなかったのですが、運動会は大きな楽しみでした。
徒競走の自分の出番直前は緊張でトイレに行きたくなるほどなのに、どうして楽しい思い出だったのでしょうか。

本日、附属特別支援学校の運動会を通して、その答えがわかったような気がしました。

足が速いとか動きが機敏だとか、そういうことよりも、大勢の前で自分の持っている力を存分に出し切って、そしてお父さんお母さん・家族にほめてもらえることが魅力だったと思いました。
さらに、清々しい天気のもと、日頃のこまごまとした活動をすべて忘れて、体を動かすことに熱中できること、これも魅力だと思いました。
そして、あの声援、あの歓声、あの笑い声。
そこには悩みや怒りや悲しみが、短い時間ではあるのですが、いったん姿を消して幸せだけが占拠しているように感じたのかもしれません。

子どもたちの活躍を応援しているうちに、時間が何十年も過去に戻って、あのときの歓声が聞こえてくるような、そんな気がしました。

今、子どもたちは心地よい疲労感に浸っているかもしれません。
あのときの私のときと同じような達成感を感じ取っているかもしれません。
今願うことは、競技の結果は忘れても、この日の最上級の幸せ、この感覚は忘れないで欲しいということ、それだけです。



教育実習の思い出 6月14日

教育実習が終了しました。
離任式では、子ども達と涙のお別れをしておりました。
何度か見てきた光景ですが、いつ見ても自分の実習を思い出してしまいます。

教育実習の思い出については、今までこのコーナーで何度か書きました。
当時の実習は2.5週間(正味15日)でしたが、本当にたくさんの思い出があります。
(例えば、http://www.ginzado.ne.jp/~sunayama/?p=712#more-712)

とにかく、附属の先生方は遅くまでお仕事され、指導も厳しかったです。
自宅に戻らず、朝まで仕事をされている先生もおられました。
指導案を持って行ってもなかなかOKがもらえず、このまま授業ができないんじゃないかと思うこともありました。
「良くできた」とほめられることはほとんどなく、発言、子どもへの接し方、授業の構成、準備、教材、時間配分・・・と、指摘される事項は無限にありました。

しかし、先生方の芸達者ぶりには、驚かされました。
楽器演奏、スポーツ、絵画、話術など、枚挙にいとまありません。
放課後に実施した実習生と教員とのバレーボールの試合は、全くレベルが違い、歯が立ちませんでした。
当時の私は、附属の先生方を雲の上の人のように見ていたかもしれません。

6月の実習前までは、私は教員志望ではありませんでした。
しかし、実習後、心機一転教員をめざすことになったのです。
ですから、今日の自分があるのは、あの実習があったから、といっても過言ではありません。

実習生の中から、将来附属で仕事をする教員が出てくれることを願ってやみません。



インクルーシブ教育と障害のある子どもの独自性 7月12日

今年度の文部科学省の新たな事業「インクルーシブ教育システムの構築」に約14億円の事業費が盛り込まれるなど、わが国でもインクルーシブ教育の方向性が示されるようになりました。通常学級への包含の程度や方法については、さまざまな考えがあります。しかしどのような場合でも、障害のある子ども達の独自性を奪ってはならないと考えます。
 私がある地域の特別支援学級在籍児童生徒を対象とした野外活動に招かれたときのことです。いつもは通常学級と十分交流している子ども達ですが、同じ障害を持つ者同士が集まって、自分たちの特性を尊重され、自分たちにあったリズムで展開される活動を楽しみにしているのです。そして、それは保護者も同じだというのです。確かに散策やゲームに興じる彼らは生き生きと活動し、とても仲が良かったです。
 文部科学省が構築をめざす「インクルーシブ教育システム」の内容を見ますと、特別支援学校や特別支援学級の存在を前提としていることがうかがわれ、この場での教育を望む子ども達の独自性が守られると思いました。これからどのようなシステムが提案されるのか、注意深く見てゆきたいものです。



講演出張より(1) 7月29日

学校が夏休みになり、県内外から研修会や講演会の依頼をいただいております。
どこにお邪魔しても親切にお迎えくださり、また、研修会会場をきれいに快適に整えておられ、本当に気持ちよくお話しさせていただいております。

ある特別支援学校でのこと。
お邪魔したときに驚いたことは、校舎がお世辞にも新しいとは言えず、しかも狭隘化で、見るからに教育環境が十分ではないと感じました。
しかし校長先生はじめ先生方の子どもの教育にかける姿勢は熱く、その証拠に教室の使い方の工夫が見られ、楽しい授業が毎日繰り広げられていることは明らかでした。

「物が十分ではない分、教師の力で環境を整えています」
校長先生は笑いながらそう話されましたが,先生方を信頼し、しっかりした校内体制で日々の教育実践を送っている自信がうかがわれました。

物は大事、それ以上に人が大事。
このことから、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という、武田信玄のことばを結びつけるのは、強引でしょうか。

講演を終え、新たな気持ちでこの学校をあとにしました。



講演出張より(2) 8月19日

特別支援教育士認定講習会講師として、大阪で「特別支援教育のシステム」について話をしました。
さすがに専門の資格を取る目的を持っている方々だけに、真剣そのもの、授業に向かう姿勢には恐れ入るばかりでした。

控室で認定協会の役員の方とお話しすることができ、このとき興味深いことをお聞きしました。
それは、認定講習の内容が、社会の変化に対応するのが間に合わなくなるほど、特別支援や発達障害を取り巻く現状の変化が早いということです。

しかし、認定協会が発行するテキストの内容は、けっして古くはありません。
むしろ更新が早いと思います。
ですが、DSM-Xへの診断基準の改定、WISC-WやKABC-Uへのバージョンアップ、インクルーシブ教育システムの構築、就学指導から支援への移行など、その変化はめまぐるしく、スライドを変えることさえ間に合わない様子です。

だからといって、認定講習で新しい情報だけを優先的に提供することは,必ずしも好ましいとは言えません。
基本的な内容をしっかり学んでいただき、それから新しい情報へと,個人的にバージョンアップすることも必要です。
個人が主体的に学ぶ姿勢は、いつの時代でも、どのような研修でも必要だということです。

専門性は獲得すればそれが永久に維持できるわけではありません。
学びの姿勢は、いくつになっても、どういう立場になっても、大事にしたいものです。



障害特性に応じた指導法? 9月4日

ある研究分科会でのことです。
「最近の先生方は理論を学びそれを応用する姿勢が見られ、それ自体は大変喜ばしいことです。しかし、理論にとらわれてテクニック優位になる問題がある」と述べた校長先生がおりました。
つまり、自閉症にはTEACCHが有効だから、TEACCHで使われている構造化や視覚的手がかりを積極的に使うことが先になり、個々の特性が後回しになっているという説明でした。

このことはほかの障害についても、よくいわれることです。
ダウン症の子はリズム感が良く、音楽リズムを取り入れると良いとか、枚挙にいとまがありません。

確かに障害特性を知り、特性にあった指導・支援をすることは大切です。
ですが、まずは個々の子どもの特性を大切にすることがもっと大事です。
TEACCHにかかわっているMesibov(2010)も、「学習に関係する個人の好みを活用」することを強調しています。
自閉症の指導法として科学的に有効性が証明されている(Bowker,2011)応用行動分析(ABA)は、まさしく個人の行動特性に注目しております。

障害に注目することも大事ですが、まずは○○さんその人をよく観察し、その人となりを尊重することから始めましょう。



指導の形態と指導形態 9月18日

知的障害の教育では、着替えや買い物といった、生活に役立つスキル(技能)を教えることが重視されています。
そのための指導の形態として、日常生活の指導(日生)や生活単元学習(生単)などがあります。
そして、授業の「指導形態」として、@実際の場面で教える形態、Aシミュレーションを使って教える形態、B一対一で教える形態の3種類があると思います。
それぞれに長所短所がありますが、いずれも子どもがスキルを学ぶために必要な指導形態です。
どれかひとつだけで教えるのではなく、この3種類をバランスよく、子どもの実態に合わせて取り入れることが重要です。
このことは、小学部の日生から高等部の作業学習まで共通していると考えます。

実際の場面で教える形態は、指導前後のアセスメントや般化に適しています。
シミュレーションは、実際場面に近い環境の中で、スキル獲得に向けて、繰り返し学習できます(この時、できるだけ何度も体験させることが重要です)。
一対一で教える形態では、子どもが苦手だったり、うまくできない行為をじっくり教えることができます。

ぜひとも、それぞれの指導形態の長所をうまく取り入れ、子どものスキル獲得やスキルアップをかなえてあげていただきたいものです。



今も輝く教育を 10月7日

先日、教大協北信越地区大会に出席したときのことです。
分科会にて、一緒に参加された保護者の方が、当校の教育実践について発言されました。
内容は、「自分の子どもを社会人として育て、ひとりの大人として尊重し、家庭でもできる具体的な実践をされていることと、親の要望に誠意ある対応をしてくれること」で、丁寧にそつそつと話され、お聞きしていて直接かかわっていない私にとっても、胸が熱くなるほどありがたい気持ちになりました。

そこで改めて思ったことなのですが、特別支援学校の教育は将来の充実した生活につながる内容と、今現在の子どもたちの充実した生活を保障する内容と、両方大事であるということです。

そして、昔作業所を見学したときのエピソードを思い出しました。
その作業所には、当時私が勤務していた養護学校の卒業生も勤務しておりました。
楽しそうに軽作業をしているその方に、「仕事は楽しいですか」と尋ねると、元気よく「楽しいです」との答えが返ってきました。
「でも」
彼女は続けました。
「今も楽しいんですが、養護学校にいたときはもっと楽しかったです」
彼女は、友達と話したり修学旅行に行ったり、体育でボール運動をしたりと、学園生活の楽しさを嬉しそうに話してくれました。
けっして今が楽しくないという意味ではなく、学校生活は学校生活として、とても貴重なひとときだった、と言いたかったのだと思います。

改めて思いました。
特別支援学校の教育は将来を大事にしますが、「今」も大事にしている。
子どもたちの今も輝かせる教育を保障することが、私たちの責任なのだと。



皆様、ありがとうございました。 10月21日

第29回日本教育大学協会全国特別支援教育研究部門合同研究集会新潟大会と
第36回新潟大学教育学部附属特別支援学校特別支援教育研究会が無事終了いたしました。
2日間で、延べ700名を超える方々に来ていただきました。
本当にありがとうございました。

今回、当校の実践を多くの方々に見ていただき、職員・子ども達にとって、大きな自信につながったと思います。
公開授業だけではなく、ポスター発表や協議会を通して、子ども達の変化や指導の有効性についても紹介でき、そして多くのご意見をいただくことができました。
当校の実践は、「意欲をはぐくむ授業」(ジアーズ教育新社)にまとめることができました。
ぜひご覧いただきたいと思います。

また、今回は教大協の研究集会同時開催で、学校の先生だけではなく大学の教員も参加し、今日的課題について論を深めることができました。
さらに、ポスター発表を通して、たくさんの先生方と交流することもできました。
そして、宮崎先生のご講演により、これからわが国が進むインクルーシブ教育システムにも知見を深めることができました。

これらのことが可能になったことは、ひとえに先生方の努力と子ども達のがんばり、そして保護者の方々をはじめとする支援者の皆様のおかげと感謝申し上げます。
まだまだ理想とする学校づくりの途上でございますが、これからも職員一同精進し、地域のモデルとなる特別支援学校作りに邁進していこうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。



研究会後の雑感 11月8日

10月18,19日の研究会・研究集会からはや3週間が過ぎようとしております。
当校の先生方にとって、研究会終了後一息ついたのもつかの間、教育実習の指導に当たられるなど、忙しい日々が続いております。
いつものこととはいえ、頭が下がる思いです。

本日11月8日、実習最終日を迎えました。
緊張の中にもちょっとした安堵の表情を見つけるたび、いつもと変わらぬ実習生の成長した姿に私も安堵します。
初日はぎこちない対応や予期せぬ子どもの反応に当惑している姿が目立っていました。
しかし、わずか二週間の実習で、子どもへの対応ばかりではなく保護者の皆様とのやりとりも少しできるようになるなど、若者の成長の早さにはいつも驚かされます。
また、子ども達も初対面の実習生をすんなり受け入れ、積極的にかかわろうとする姿に子ども本来の姿を見いだすことができ、子どもを評価するのに障害特性にこだわる必要性などないことに気づかされます。

思えば10月上旬は真夏のような暑さでしたが、急激に秋が深まり、そして来週には冬の便りが聞かれそうです。
この年齢になりますと、今まで感じたことのない時間経過の早さに当惑の毎日です。
そんな中、若い人や子ども達がすくすくと育っていく様子を見ると、時が過ぎてゆくことを嘆くことはないのだと、感じます。

附属特別支援学校正面玄関前には落ち葉が増え、風とともに舞い上がることもあります。
過ぎゆく秋に感傷的になるのではなく、新たな時代の訪れ、なんてとらえるようにしたいものだと思いました。



今年はどんな年でしたか 12月20日

まもなく平成25年が終わろうとしております。
本日、当校でも二学期の終業式がありました。
今年はどんな年でしたか、そう子どもたちに問いかけました。
各学部の代表児童生徒が、それぞれの思い出やがんばったことを発表していましたが、一人ひとりの思い出は様々なのでしょう。
職員だって、思いは人それぞれでしょうし、保護者の皆さんもそうだと思います。
しかし、立場を異にする三者が共有できる思い出もあるはず。
特に、無事に一年を過ごすことができたことは、何度も繰り返し口にする平凡な思いですが、やはり一番にあげることと思います。
当たり前のことができ、当たり前の毎日を送り、当たり前の一年を過ごすことができたことを、もっと喜びましょう。
特に子どもたちは、毎日当たり前のことをきちんとこなし、充実感あふれる表情で学校をあとにしておりました。
単純な日々の繰り返しが、いつかきっと自分を大きくしてくれる、私はそう思います。



和食文化と親子のコミュニケーション 1月8日

 昨年12月5日(日本時間)、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたことは、皆さんご存じのことと思います。東京オリンピックプレゼンの、「おもてなし」とならび、わが国の食文化が世界で認知され、その価値を認められたことは、本当に喜ばしいことです。農林水産省のHPによりますと、「日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。自然の恵みである『食』を分け合い、食の時間を共にすることで、家族や地域の絆を深めてきました」とあります。お正月のおせち料理やお雑煮などは、まさしくこの理念に当てはまる食べ物だと思います。
 ところで、今年のお正月、皆様のご家庭では、どのようなおせち料理を召し上がったでしょうか。地域やご家庭の伝統に則ったお正月料理を囲み、ご親戚の近況や新年の計画などについて、会話が深まったのではないでしょうか。今一度、大晦日から正月三が日の様子を、お子さんと一緒に思い出してみましょう。
 しかし、最近親子のコミュニケーションが十分ではなく、会話時間が少ないことが問題視されています。その要因のひとつとしてスマートフォンが指摘されています。例えば、食事中もスマホを離さず、会話してもうわの空、注意をした結果ますます話をしなくなった、なんてことがあるようです。中には強硬手段として契約解除をちらつかせ、いよいよ関係が悪化したなどという報告もあります。スマホに依存することは好ましいことではありませんが、かといって、今の子ども達からスマホなどのICTを奪い取ってしまうことはむずかしいと思います。
 特にコミュニケーションに困難を抱えている子ども達にとって、VOCA(ICTによるコミュニケーション手段)を使うことでコミュニケーションが可能になったり円滑になったりすることが期待されます。VOCAの使用は合理的配慮であり権利であることが、これから学校教育現場でもいっそう重要視されるでしょう。
 ICT社会での親子関係について、障害の有無にかかわらず、以下のことが大切だと考えます。まずは、どのような手段でも(直接対話でもVOCAでも)、子どもと直接のコミュニケーションの機会を作ることです。そして、子どもと話すときは子どもの話によく耳を傾けること(子どもに言わせること、子どもの主張を待つこと、表現させること)。何より普段から子どもの生活に関心を持つこと(話題づくり)。会話しながらも、揺れ動く子どもの気持ちを受け止めてあげることです。
 平凡な提案かもしれませんが、このことをしっかり実践すれば、子どものスマホ依存を防ぎ、暖かい親子の関係を構築・維持できると思います。昔も今も、親子による直接対話・かかわりが最も大切な親子関係なのです。



子ども達が発表すること 2月4日

本日はすなやま祭でした。
発表を拝見して、どのようなことばを選んだらよいのか悩むぐらいに、心が揺り動かされました。
普段の学習で身につけた力、練習の成果を、その子なりにしっかり表現していたと思います。
本当にすばらしいすなやま祭でした。

このような発表会を見ると、どうしても昔を思い出してしまいます。
今までのこの時期のメッセージは、二件ともすべて私の思い出話になっていますね。

私は教員になってから8年ほどは重度重複障害のある子どもを担当しておりました。
当時、この子らの教育は歴史が浅く、特に学習発表会の対応は往生しました。
何しろ主体的自律的な活動に著しい困難を持っているため、他の人に何かを見せるという意識が皆無であり、そもそも「見せる」行為そのものがむずかしいのです。
当然、初期の頃は教師が子どもを「操る」発表がほとんどで、今でいう「やらせ」状態でした。
最初は関心を持ってみてくださった保護者も、次第に違和感を覚えたようです。

そこで私ら教員は、子どもの主体的自律的な動きを尊重し、どんなに些細な動きでもそれを最大限に生かすことを考えました。
左腕がわずかに動く子にはその動きで楽器を鳴らし、音を録音編集して簡単な曲にするとか、歩行など普段がんばっている訓練の様子を訓練ではなく「探検」の演出をしてお見せするとか、いろんな知恵を絞りました。

重度重複障害の子どもらの発表が終わったとき、新任の校長先生の様子の変化に気づきました。
泣いておられるのです。
あとでうかがったところ、予期せぬ子どもたちの自然な発表の姿に、心から感動したのだとか、
当時生意気だった私は、校長の経験のなさから来る同情にも似た感情なのだと、冷淡な反応を示していたように記憶しております。

しかし、よく思い出してみますと、子どもたちは誰かを喜ばそうとしていたわけではなく、ただ自分ができることを自然に実行していただけなのです。
その結果として、校長先生に大きな感動を与えた、そういうことなんですね。
障害が重い、だから無力な存在だ、という考えは、いわゆる健常者の思い上がりだと感じます。

発表会を見るとき、私は今でも、いつもの姿に似つかわしくない、あの校長先生の泣き顔を思い出します。
そして、今自分があの校長先生と同じような気持ちになっていることを感じました。



はなむけのことば(平成25年度卒業式式辞)  3月18日

 卒業生の皆さん、保護者・ご家族の皆さま、ご卒業おめでとうございます。私たち職員一同、皆さんの卒業を心より祝福いたします。

 小学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。みんな、6年間でずいぶん成長しました。生活の予定がわかって自分の気持ちをしっかり表現できるようになり、そして歌が上手になりました。児童会会長としての仕事を立派にこなしました。挨拶する姿はみんなのお手本となりました。授業や集会での話をしっかり聞き取り、積極的に自分の考えを発表できるようになりました。みんなすばらしい小学部のお姉さんお兄さんになりました。中学部に行ったら、新しい友達とも仲良くしてください。

 中学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。皆さんの学級に何度もお邪魔しましたが、いつも明るく仲が良く、友達を大事にする姿がすてきでした。宿泊学習やすなやま祭などの行事ではみんなのお手本となり、自分の仕事も、演技も、行事の運営の仕事も立派にこなしていましたね。三送会で見せてくれた、お世話になった人や励ましてくれた人に感謝する気持ちと態度に、校長先生は感動しました。感謝する心と感謝の気持ちを伝えること、このとは高等部に行っても大事にしてください。

 高等部の皆さん、卒業おめでとう。皆さんの学級目標は「自分で考えて行動する」「協力する」でしたね。作業学習をはじめ、あらゆる活動の中で、互いに声を掛けたり,助け合ったりする姿が見られ、「理想の社会人」にかなり近づいたと思います。そう、 皆さんは「理想の社会人」をめざしていましたね。学習を通して「あいさつ」「ホウレンソウ」を教えられました。このことは社会に出ても続けてください。さらに、自分の気持ちや考えを、相手の人にちゃんと伝えられるようにしましょう。そうすることで「理想の社会人」になれると思います。

 保護者の皆様、お子様のご卒業、本当におめでとうございます。それぞれ人生の次の段階に進むことになります。私は皆様に、支援を必要とする人たちの権利についてお話ししたいと思います。
 とかく特別な支援を必要とする人たちは、人から指示をされ、指示通りに動くことを求められてきました。しかし、支援を必要とする人にも、自分の考えを主張する権利があります。これから社会に出たとき、いろんな困難を子どもたちが待ち受けております。そんなときには、まずお子さんの訴えを聞き、受け止め、理解してあげてください。子どもの小さな変化に気づくようにしてください。何も教えなくて構いません。訴えを受け止め、理解していただきたいのです。そうすることで子どもたちは気持ちが楽になり、自分の意思を表現できるようになり、より大人に近づくと思います。

 最後になりましたが、本日の卒業式にご臨席を賜り、卒業生を祝福していただきましたご来賓の皆様、誠にありがとうございました。今後とも変わらぬご指導、ご支援を賜りますようにお願い申し上げ、私のはなむけのことばといたします。



私の心から始まる 3月25日

長く生きていると、当然のことですが、さまざまな経験をします。
楽しいことよりつらいこと、苦しいことの方が多いように感じます。
不幸な出来事が立て続けに起きることだってあります。

私の恩師は、「世の中は不平等だ。不幸な人はどこまでも不幸が訪れることもある。実に理不尽だ」と前置きをし、
「自分が置かれている状況の受け止め方によって、不幸と感じるかそうじゃないか、あるいはその程度は違う」と語りました。
そして、「すべては自分自身の心から始まる。落ち込んでいるときに『もうおしまいだ』とあきらめるのか、それとも『今がつらいときだから明日はきっと今より良くなるはず』と前向きになるのか、それはその人の心がけ次第なのだ」と続けて語りました。

つらい状況にあるときには、なかなか自分を見つめ直すこともむずかしいと思います。
ですが、いつまでも嘆くのではなく、「これからどうなるのかは自分の気持ち次第なのだ」と言い聞かせ、自分自身と対話することが大事ではないでしょうか。

震災で被災され、今も厳しい状況にある知人の姿を見ていても、この姿勢がいかに大切であるかを認識させられます。

新たな年度を迎えるに当たり、今一度私自身に「私の心から始まる」と言い聞かせてみました。




<平成26年度>

お祝いのことば(平成26年度入学式式辞)  4月9日

 新入生の皆さん、そして、保護者の皆様、ご家族の皆様、ご入学誠におめでとうございます。私たち職員、そして在校生は、皆さんの入学を心から歓迎いたします。
 小学部に入学した1年生3人と転入した4年生の1人の計4人の皆さん、転入学おめでとうございます。皆さんのそばに皆さんの先生とお友達がいますね。早く仲良くなって、毎日元気に学校に来てください。先生方も、お兄さん、お姉さんも、みんなで皆さんを待っています。
 中学部に入学した6人のみなさん、入学おめでとう。今日から中学生ですね。中学部では仕事をしたりスポーツをしたり、とっても楽しいですよ。早く同級生の名前と先生の名前を覚えましょう。
 高等部に入学した10人の皆さん、入学おめでとう。今日から皆さんは高校生ですね。高等部では大人になったときに一人で生活したり仕事をしたりできるための学習をします。そうです、「社会人」をめざすのです。理想的な社会人になれるよう、仲間を大切にし、高校生活を楽しんでください。
 保護者の皆様、お子様のご入学おめでとうございます。校長として皆様に将来のことについてお話しいたします。
 将来の自立をめざす教育をキャリア教育といいます。キャリア教育に必要なことは、お子さんの「やりたいこと」「やれること」「やらなければならないこと」の3つを明らかにし、そのための力を身につけることです。最初の2つは人それぞれ違うのでしょうが、やらなければならないことは共通していると思います。その中の最も重要なことは、基本的生活習慣の確立です。その内容は身辺自立、健康の保持、そしてルールを守ることです。これは働く基本です。ぜひとも将来自立した生活ができるよう、学校と家庭、そして地域の皆様とみんなで一緒にがんばっていきましょう。
 最後になりましたが、本日の入学式にご臨席を賜り、新入生の入学を祝福していただきましたご来賓の皆様、誠にありがとうございます。今後とも附属特別支援学校の運営に対して、変わらぬご指導、ご支援を賜りますよう、お願い申し上げ、私のお祝いのことばといたします。



学年があがるということ 4月15日

入学式が終わり、新年度の通常の授業が始まりました。
この時期、気になることは、やはり新入生の様子です。
特に小学部1年生、中学部と高等部1年生の外部入学の生徒さんは、新しい環境になじんでいるか、同級生とかかわっているかなど、注意して参観するようにしております。
新入生の皆さんは順調に新しい環境になじみ,学校生活を送っています。

子ども達の様子を見て気づかされることは、学年があがったことで一段と成長していることです。
進級の子どもや連絡入学の子ども達は、ほぼ同じ環境で生活することになりますし、しかも数週間前にもお目にかかっております。
在校生の子ども達は教室が変わったとはいえ、それほど大きな変化が生じたとは思われません。
でも、やはり変わっているのです。
落ち着きが増したり、積極的に発言したり、意欲的に登校できたり、確実に変わっているのです。
これはいったいどうしてでしょう。

かつてわが国の障害児教育を構築した糸賀一雄先生は、「発達保障」という教育哲学の中で、どんなに障害が重くても内面化による人格形成の大切さを説き、目に見えない変化があることを強調されました。
さらに先生は、各発達段階に固有の価値を認めるよう諭しましたが、学年による子ども達の変化はこの考え方に従って解釈すべきかと思います。
標準発達という尺度によれば、知的障害のある子どもの成長は小さく見えるのかもしれません。
しかし、そのような評価は一面的で、子ども達一人一人の見える成長と見えない成長を、その子だけの尺度で評価すべきではないかと思うのです。

新入生歓迎会など新年度特有の行事を陰から眺めながら、この子達の成長を頼もしく感じました。



校内を歩いて 5月8日

普段の授業を見学していて、何気ない子どもたちの様子や発言から、いろんなことを思い巡らします。
行事での子どもたちや先生方の活気ある様子はもちろんすてきですが、いつもの姿を見ているときに「なるほど」と思ったり、はっとさせられたり、さまざまな想いに浸ることがあります。

高等部の家庭生活の学習で、将来の暮らしについて学んでいました。
その中で、将来ひとり暮らしをしたいと答えた生徒が半数以上だったことに、昔も今も親から独立することが大人へのあこがれであることは変わらないのだと感じました。
知的障害のある人の施設入所者はあまり減っていませんが、地域移行しグループホームを利用する人はかなり増えているようです(末光,2014)。
課題として、在宅及び地域支援の充実があると、末光さんが述べていました。
あこがれとは違って現実はまだまだ厳しいのですが、ひとり暮らしを希望する生徒の皆さんの願いが叶うといいなあと思いました。

中学部の作業学習では作業体験をしておりました。
かつて自閉症の施設で、利用者さんの作業意欲に問題があることがわかり、対策を考えたそうです。
それは利用者さんに作業種目の自己選択を保障することでした。
結果として対象となった利用者さんの作業量が増えた、という有名な実践研究があります。
自己選択とはその人にすべてまかせるということではありません。
失敗しない自己選択を保障するためには、いろんなことを体験し、その活動をよく知ることが必要不可欠です。
そういうことから、作業の体験期間を設けることは、自己選択保障の観点からも大切なことですね。

5月2日は小学部の遠足でした。
心なしか、子どもたちはいつもより早く登校し、スピーディーに教室に入ったように感じました。
非日常の活動って、魅力的ですよね。
出発前、「あ〜、ワクワクする!」というかわいい声がしました。
「ワクワクする」
忘れかけていた、すてきな響きのすることばを聞かせていただきました。

皆様、「ワクワクする」体験、最近しましたか?



運動会、今も歓声が聞こえます。5月27日

5月24日、今年度の運動会が盛大に執り行われました。
子ども達の活躍、卒業生、保護者と地域の方々の参加、職員の準備運営、学生のボランティア、そして晴天になってくれたことに感謝いたします。

小学部のレースでは、わかりやすいストーリーの中に、飛ぶ・投げるなど基本的な動作が取り入れられており、日頃の学習の成果を発揮できたと思いました。
中学部のレースでは、子ども達みんなが好きな「モンスターズインク」にのっとって競技が行われており、物語の主役になりきってがんばっている姿が印象的でした。
高等部のレースでは、フライングディスクなど一般的な競技をとおして個人のがんばりを評価する方法で、生涯スポーツにもつながる貴重な種目だと思いました。

それぞれ内容は違っても、体を動かす楽しさ、心地よさを感じてもらえたと思います。

私自身は今回が4回目の運動会参加でしたが、毎回感じる爽快感は、どこから来るのか、いつも考えてしまいます。
青空の下で精一杯体を動かすことからでしょうか。
家族をはじめたくさんの人から応援していただき、拍手してもらうことからでしょうか。
みんなが同じ場にいて時間を共有し、一体感を覚えることからでしょうか。

運動会に参加して得られる爽快感や満足感は人それぞれ違うでしょうし、その理由も違っているかもしれません。
でも、間違いなく言えることは、みんながそれぞれ爽快感・満足感を覚え、今でも時々その余韻に浸ることがあること、そして、将来も時々思い出としてよみがえることではないでしょうか。

運動会ということばに、「あー、今でもあの時の友達や家族の歓声が聞こえるなあ」と、つぶやいてほしいと思いました。



親支援を考える 6月18日

学生の頃、障害のある子どもをもつ親のストレスと、障害のない子どもをもつ親のストレスとの比較に関する論文をいくつか読みました。
多くは、障害のある子どもをもつ親のストレスが高い(子育ての大変さ、将来のことなど)と報告していましたが、差はない・むしろ障害のない子の場合のほうが高い(受験競争、非行など)などという報告もあり、ちょっと驚いたものです。

現在は、このような研究はあまり目にすることはなく、「どうすれば親のストレスを軽減できるか」という主旨の研究が目に尽きます。
つまり、子育て支援に関する報告です。
この研究に当たっている研究者の報告は次の通りです。
障害の有無にかかわらず、子育てにおける親のストレスを軽減し、自信をもって取り組むために必要なことは、家族を中心としたサービス(Raspa,2010)、社会的支援(Sinan-tov,2010)、兄弟関係、親のストレスに打ち勝つ力(コーピング)を高める(Meagan,2010)、両親の結束力(Pisula,2011)など。
(欧文と年号は、研究者の名前と論文発表年です)

つまり、社会全体で子育てを支え(福祉制度、周囲の援助など)、両親だけではなく家族やその兄弟も対象とし、親(もしくは家族)が結束してストレスに対応できるように支援(親支援講座・プログラム、学習会、相談事業など)すること、とまとめられます。

現在、附属特別支援学校では「親支援講座」を展開中です。
この講座が参加している方々にとって、このような貢献ができるようにがんばっていきたいと思います。



夏休みについての思いで 7月24日

25日から当校では夏休みになります。
子どもたちは元気に一学期の終業式を迎え、家庭に帰っていきました。
子どもにとって、今も昔も、夏休みは格別の楽しみでもあり、思いで作りの良い機会でもあります。
しかし、そのような経験ができない子どもたちもいるのです。

私は初任で重症心身障害児病棟の訪問教育を担当しました。
寝たきりなど障害が重く家庭で療育できない子ども達がほとんどで、生活の場は病棟、つまり入院生活を送っているのです。
普段は定期的に学校から先生が出向き、授業や遊びを通してかかわってもらえるのですが、長期の休みはそれができなくなるのです。
看護師さんや保育士さんが相手をするので、人ととのかかわりが全くなくなるわけではありませんが、夏休みは孤独な季節であることは間違いありませんでした。
たまたま用事があって病棟に行ったとき、私を見つけて笑顔になった子どもを見て、うれしさより胸が痛くなったことは忘れられません。
その後休みの中間に登校日(つまり授業日)を設定したのですが、子ども達にとって、どれほどの慰めになったことか。
学校教育の限界を感じた、苦い思い出です。

夏休みは家庭で長期間生活することになります。
普段できないことをしたり、会えない人に会えたり、行けない場所に出かけるなど、いつもと違ったチャレンジができます。
ぜひとも多様な経験をして、二学期には元気な姿を見せて、そして思い出を語ってほしいです。
そのためにも安全第一、健康第一ですね。



教育は未来を造る 9月1日

全附連校長会に参加して、改めて教育とは何かを考えさせられました。

当たり前のことですが、教育は子どもを育てること、人を造ること、自己実現を支援することだと思います。
つまり、未来の社会を造る重要な仕事なのです。
よく言われることですが、資源に乏しい我が国が発展したのは教育を大事にしたからであり、このことは日本人の誇りだと思います。

しかし、教育という「投資」は短期的な「リターン」はあまり期待できません。
子どもが育つにはそれなりの時間がかかります。
結果はすぐには現れないかもしれませんが、教育は未来の社会を造る夢のある仕事です。

特に障害のある子どもの教育には、
糸賀一雄先生のお言葉をお借りすれば、社会変革に値するほどの価値ある仕事だと思います。

「この子らは世の光なり」

私たち附属特別支援学校の教員は、この言葉の意味をしっかり認識し、次の合い言葉を思い出して二学期以降の教育実践に当たりたいと思います。

「新潟から社会を照らす光になろう」(平成23年度始めのスローガン)



「ほっと」する瞬間 10月2日

インクルーシブ教育システム構築の施策が打ち出され,特別支援学校の今後のあり方も話題になることが多くなりました。
現在,特別支援学校の在籍者は年々増加してはいますが,そのほとんどが高等部であり,義務教育対象である小中学部の増加は,それほどでもないように思われます。
今年度の特殊教育学会でも,新時代における特別支援学校の役割がテーマになっているシンポジウムを見かけました。

将来特別支援学校が,障害のある子どもの教育から地域のセンターとしての役割に軸足を移し,ダウンサイズすることも考えられます。
障害のある子どもの教育の場が通常学級にシフトすれば,当然のことと思われます。
私はインクルーシブ教育は世界の基準と受けとめる反面,本当にそれでいいのかと思うこともあります。
それは,附属で生活をし,子どもたちの学習の様子を見たり,子どもたちと話をしたり,関わったりするときです。

一言で言えば,附属にやって来ると「ほっと」するのです。
子どもたちが生活することそのものを学び,少しずつでもできるようになっていく姿を見たり,熱心に教える先生方の姿勢を見ると,生きることを大げさに考えるのではなく,日常生活を当たり前に過ごすことの大切さを感じるのです。
大げさかもしれませんが,日々のつとめを淡々とこなし,親しい人と語らい,三度の食事をすることが,いかに尊いものであるかを教えられます。
そして,それは一部の特権などではなく,求める者誰もが得られる幸せであることを認識すると,「ほっと」安心するのです。

教科の能力の高さが大学入試や就職試験において,昔以上に重視されていることは否定できません。
しかし,学校教育の中で「ほっとする」時間が保障される生き方は,様々な競争によって獲得できる生き方と同じように尊い生き方だと思うのです。

私の任期もあと半年となります。
「ほっと」する瞬間のすばらしさを,もっと多くの方に理解してもらうべく,今後もしばらく発信活動を続けていきます。



あなたの趣味は何ですか? 10月17日

先日のPTA講演会で,卒業後の余暇活動について話題になりました。
余暇活動は,仕事と同じぐらい大事なことですよね。
ある調査(引山,2010)によりますと,知的障害のある方々(子どもから成人まで)の余暇活動の調査内容の結果は,多い順に,テレビ,インターネット,買い物,昼寝,散歩,ビデオ・DVD,ゲーム,音楽鑑賞,習い事,となっていました。
そして,余暇を楽しむ相手は,ほとんどが両親でした。
友達と一緒,という方が少ないのが,ちょっと考えさせられました。

人の好みに善し悪しはありませんし,人の迷惑にならない限り,どのような趣味も余暇活動も認められるべきです。
ASD(自閉症スペクトラム)の方々は,その特性から傍目にはマニアックな趣味にみえることにハマる人も多くいます。
私が知っている方の中でも,イラスト(道路標識,家の電気配線など),鉄道(架線,踏切,パンタグラフ限定),回転灯や信号機(集める,探す),洗浄機付トイレ(もちろん物だけに興味があり,不道徳なことはしません)など,枚挙にいとまがありません。
保護者の中には,このようなマイナーな趣味にあまりいい顔をしない方もおられますが,私はそうは思いません。
興味関心は尊重されるべきです。

ただ,こだわりという閉ざされた状態から,そのこだわりをベースにしてより社会的・生産的な趣味に育てることが大事だと思います。
例えば水へのこだわり。
水へのこだわり→お風呂での水遊び→プール→水泳という系統的な対応は,必ずやみんなが認める余暇活動になるはずですし,本人も満足するはずです。

そもそも継続される楽しさには,自律性,関係性,競争性があるはずです。
自分で選び,人とかかわり,ある部分では人と競う,そういう活動は熱中し長続きしますし,そういう趣味をもちたいものです。

まずは子どもの頃から同じ活動を親子で楽しみ(親も無理なく楽しめる活動を選ぶ),成長とともに一人で(友達と)楽しめるようにしていくことです。
これも私の知っている方の話です。
子どもの頃,その子は同じ列車の本を見るのが大好きだったそうです。
そこで親子で列車に乗る経験をしたのですが,その子は未知の環境に不安がるので無理をさせず,楽しんで終えるようにしたのだとか。
成長とともに一人で列車に乗れるようになり,やがてバイトをしてユースホステルに泊まり日本国中の鉄道に乗り,鉄道写真を撮るようになり,学校卒業後はJRの関連会社に就職しました。

余談

私の趣味ですが,列車の最後尾に立って,去りゆく踏切の遮断機が上がるのを見ることが大好きです。



実習生が実習生を指導する 11月10日

表題は,正しくは「かつての実習生が今の実習生を指導する」という意味です。

今回の教育実習も,大学からたくさんの実習生が当校にやってきました。
毎日子どもととことんかかわる中で,授業のあり方に悩み,先生方からたくさん指導されたことと思います。
思うようにできずに,涙することもあったでしょう。

私は大学教員の立場で,これまで多くの実習生を見てきました。

思うように授業ができず,教師になることをやめたいと言った実習生。
授業中に次の行動に移すことができず,思いあまって教室から出て行ってしまった実習生。
緊張のあまり,目が点になるような仰天発言をしてしまった実習生。
生徒からの質問に答えられず,固まってしまった実習生。
教材研究に力を入れ,おもしろキャラで登場したのはいいのけれど,思いっきりスベった実習生。
自分の殻を破って自分を表現できたけれど,その後の振る舞いに悩んだ実習生。

今ではみんな,立派な先生になっております。

そういえば,附属の先生方の中にも,ここで実習した先生が何名かいます。
みなさん実習生の時は,いっぱい悩んだはずです。
今では自信をもって後輩の指導をしています。私も見ていてたくましくなったとうれしくなります。
今苦労している実習生たちも,やがては指導する立場になり,後輩を育てて欲しいと思いました。

あれ?
そういう私も,ここの実習生でした。
当時は,思いっきり遅くまで残されたなあ・・・



研究主題を自分のことで考えてみた 12月12日

 私たちはなぜ働くのでしょう。

 今さらこんな質問には,わざわざ答える気にもならないでしょうね。そう,収入を得て生活するためです。お金のために働いているのです。でも,こういう経済学の本があります。
 「人はお金だけでは動かない―経済学で学ぶビジネスと人生」(ノルベルト・ヘーリング,オラフ・シュトルベック著。NTTコミュニケーションズ)。行動経済学の立場から,人間の行動は必ずしも合理主義に従っているとは限らないことなど示しております。考えてみれば当たり前ですが,お金だけが人生でもないし,ましてや生きがいの全てではありません。
 前置きが長くなりました。当校の研究主題『子供が学びを深める姿を目指した授業づくり』を研究主任から知らされたとき,私は「子供たちが授業の中で達成感を味わい,意欲的に生きる姿を想像し,そのための授業づくりの在り方を考えるのだ」と理解しました。しかし,しばらくしてこの主題を自分に置き換え,「自分自身が仕事をして達成感を味わい,意欲的に生きるためにはどうすればいいのか」と考え始めました。そこで,文頭の質問になったわけです。
 もう何十年も特別支援教育にかかわり,私にとって仕事は,「空気」みたいに意識しない活動なのですが,原点に返って振り返りますと,一言では言い表せない課題だと感じました。「他者からの評価?」「感謝のことば?」「期待した額よりも多かった報酬?(ほとんどこういうことはありません)」「子供の笑顔?」「一つの大きな山を越えた後の心地良い疲労感?」。いろんな考えが浮かんではきたのですが,思い付いたことを簡潔にまとめて表現することは,私にはできませんでした。この主題は,人間にとって普遍的な課題なのかもしれません。
 しかし,研究主題に基づいた授業を参観してみて,あえてむずかしく考える必要などないのかもしれないと思いました。小学部の児童たちの様子から遊ぶ楽しさを,中学部の生徒からは自分たち自身で考え実行することの意義を,高等部の生徒の姿からは生活そのものをしっかり生き抜くことの価値を,発達通級の児童生徒たちからは話し合うことが人を成長させることを,それぞれ学んだような気がします。皆さんもあえて肩の力を抜いて当校の授業を見てください。おもしろさを発見する気持ちで紀要を読んでください。「授業をやってみて,子供たちが一番喜んだ場面は何?」と,当校職員に質問してください。まずは「研究」という言葉をいったん忘れ,活動そのものの魅力を味わっていただけますか。

 最後は,私が読んだ本から学んだことで締めくくります。
ソーシャルゲームにはまる理由,それは自律性,有能性,関係性があるから(ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足。深田博嗣著。ソフトバンククリエイティブ)。ソーシャルゲームがおもしろいのは,自分で意思決定できて,クリアした・相手を倒したという達成感を味わえ,そして多くの人とつながれるからだと解釈しました。自律性・有能性・関係性って,教育にも必要なんじゃないでしょうか。



新幹線はなぜ優れているのか? 1月14日

 今年は鉄道ファンにとって,待ち遠しい出来事が待っております。そうです,3月14日,北陸新幹線が開業いたします。上越妙高駅から東京まで,1時間48分で行けることになります。現在より17分の時間短縮ですが,新幹線のすばらしさは時間の短縮以上に,安定した運行(運休や遅れが少ない)にあると思います。それはどうして可能なのでしょうか。
 新幹線は,車体・電源制御機器・台車・車内設備・座席など,どれをとってもトップクラスの性能で,洗練されたデザインの車両です。北陸新幹線は,「和の伝統美と,最新技術の機能美と」をキャッチコピーとして,美しい車両が作られました。しかし,新幹線のすばらしさは,その優れた車両を定時に,しかも安全に動かすシステム(新幹線総合システム,通称COSMOS)だと思います。つまり,このシステムがあるからこそ優れた車両の性能を最大限に引き出し,より早く・より快適に・そして安全に人を運ぶことを可能にしているのです。
 このことは,実は,学校運営にも当てはまると思います。どういうことかと言いますと,特別支援教育の実力を備えた教師をたくさんそろえたとしても,その先生方の力を引き出し生かすシステムがないと,良い教育はできないということです。つまり,優れた先生方がもっている力を最大限に発揮できる学校としての体制作りが大事なのです。
 当校では,特別支援教育や通常学級での教育の実績と力量のある先生方が多数集まっております。そして先生方の力を生かす校務分掌組織や,研究体制がしっかりしているので,昨年12月に公開したようなすばらしい授業が可能なのだと思います。さらに,メンバーが替わっても伝統をしっかり引き継ぎ,時代の変化に対応できる校内体制をもっていることも強みです。新幹線も,昭和39年開業以来,一度も人身事故を起こさない安全という伝統をしっかり引き継いでいますね。
 皆さんは北陸新幹線に乗る予定はありますか。もし新幹線に乗られたり目撃したりしたときは,写真を撮るだけではなく運行システムのすばらしさを思い出してください。そして,当校の学校組織についても,想いを巡らしてくださるとうれしいです。



スマイル全開 すなやま祭 巻き起こせ 感動の嵐 2月4日

1月31日,当校のすなやま祭でした。

小学部では,普段の学習活動を生かし,さまざまな発表を通して,子ども達の成長の様子を存分に見せてくれました。
中学部では,みんなが知っている劇で楽しませてくれ,その中で,それぞれの役割をしっかりこなしている様子から成長のあとを感じました。
高等部はチームワークの良さを存分にアピールし,観客を魅了してくれました。特に,卒業生から保護者,教師,後輩へのメッセージには子ども達の思いがしっかり込められており,胸打たれました。

さて,私事です。
若い頃,養護学校の教員をし,学習発表会も何度か担当しました。
ある年の学習発表会のことです。
新任校長がはじめて養護学校のステージ発表を見て,講評の時に感動のあまり絶句し,ことばを詰まらせてしまいました。
若かった私は,その校長の心中を察する余裕すらありませんでした。

今回,子ども達が表現する姿を目の当たりにし,自分がそういう状態になったことに気づかされました。
大げさな表現かもしれませんが,心の底から,生きる力につながる何かを与えてもらったように感じました。
そして,このような感動を与えてくれた子ども達と先生方に,心から「ありがとうございました」と言いたい気持ちで一杯です。

皆さん,ありがとうございました。

もう一つ,感動したことがあります。

一つ一つの発表の終わりだけではなく,子ども達一人一人の発表や活動に対しても,あたたかい拍手がたえなかったことです。
私はこのとき,会場全体の一体感を覚えました。
子ども達,職員,保護者,卒業生,学生の皆さん,地域の方々,来賓の方々との一体感です。
それは私がめざしている附属特別支援学校というファミリーの一体感です。
何も理屈や条件は必要ありません。
附属特別支援学校で行われるイベントや普段の活動を一緒に楽しむこと,それだけでいいのです。

私は,このファミリーとしての一体感は,何よりも大事な宝物だと思います。
そして,この一体感をできるだけ多くの人々に味わってもらえるよう,今後展開される学校行事等を更に充実させたいと思いました。



修学旅行に同行する 2月24日

2月20日,小学部3組の修学旅行に同行しました。
一昨年に続いて2度目です。
ちなみに私は16年教員をしていて,一度も修学旅行に行っておりません(どうでもいい情報ですね)。

子どもたちは,新幹線の車内,駅からバスへの移動,スカイツリー内での見学など,集団行動をしっかりとることができました。
それぞれの楽しみ方で,それぞれの場所・場面を楽しむこともできました。
移動や食事,トイレなどで支援の必要な場面がありますが,東京への1日がかりの活動は難なくこなすことができるのです。
こういう経験を積み重ね,将来仲間と一緒に,もしくは一人で旅行をしたり,好きな余暇を楽しんだりすることができるようになるのでしょう。
子どもたちにとって今回の経験が自信につながることを信じております。

スカイツリーを訪れて気づくのは,障害のある人や特別支援学校の児童生徒(及び教師)らしき方々を,何人も見かけることです。
このことは,スカイツリーを運営する東武グループが,障害のある人への合理的配慮をはじめとするサポートがしっかりしていることの証明だと思います。
だから安心してスカイツリーを訪れることができるのでしょう。
昔は,障害のある子どもの親は,人が多くいる観光地に行くことがなかなかできませんでした。
しかし今は多くの施設が障害のある人を受け入れるための条件を整えるようになってきました。
この傾向が来年度の障害者差別解消法の施行を待たずとも,もっと加速していってほしいと思います。

6年生は3年後は中学部の修学旅行に行くことでしょう。
大きくなった彼らが笑顔でテーマパークを闊歩している姿を,今から想像しております。



はなむけのことば(平成26年度卒業式式辞)  3月18日

 卒業生の皆さん、保護者・ご家族の皆さん、ご卒業おめでとうございます。私たち職員一同、皆さんの卒業を心より祝福いたします。

 小学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。皆さんががんばったことは次の通りです。児童会会長として、小学部の集会だけではなく全校集会でも、自信を持って発表することができました。給食のご飯や野菜など、いろんなものが食べられるようになって体も大きくなり、とっても力持ちになりました。学校やクラスでのきまりがわかり、給食などの係の仕事を最後まで丁寧にやり遂げられるようになりました。
 中学部の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。皆さんは上級生として生活単元学習、作業学習、運動会やすなやま祭などに率先して取り組みました。みなさんの生き生きした姿が今でも目に浮かびます。どんなことにもみんなで協力でき、どんなことにもチャレンジでき、そしてどんなことにも一生懸命取り組める皆さんは、とってもすてきな中学生でした。
 高等部の皆さん、卒業おめでとう。皆さんのクラスの様子を時々見せていただきました。皆さんは、毎日の基本的生活習慣を大事にし、みんなで声がけをしてとり組みました。次に、一人一人が目標を立て、すてきな社会人になることをめざしてがんばりました。そして、これらの努力をインターンシップで発揮しました。進路が決まるまで最後まで諦めず、お互いに仲間にエネチャージを送って励まし合っていましたね。社会人になっても、ここで出会った仲間を大切にしてください。

 保護者の皆様、お子様のご卒業、本当におめでとうございます。私は皆様に、できることをこつこつやり続けることの大切さをお話しいたします。
「新潟から社会を照らす光になろう」
 平成23年度、私が入学式でお伝えしたメッセージです。その意味は、子どもも大人も、自分自身ができる仕事や作業をし、周りを明るく元気にしようと呼びかけました。あの頃、世の中は震災直後で国民皆が悲嘆に暮れていました。あれから4年たち復興は道半ばですが、この間、私は我が附属の取り組みを東北の先生方にも広く紹介しました。子どもたちがひたむきに作業に取り組む姿、子どもたちに真剣に向き合う先生方、そして学校をしっかり支えてくださる保護者の皆様へ高い評価をいただきました。そのとき、私たちは一丸となって社会の光となり、被災地の一隅を照らすことができたことを感じました。
 今、お子様のご卒業に当たり繰り返し申し上げます。無理に背伸びをしなくても良い、自分自身ができることを地道にし続けること、それが人として尊い生き方なのだと。毎日こつこつ自分の役割をやり続けているお子さんに、「それでいいんだよ」と声をかけてください。

 最後になりましたが、本日の卒業式にご臨席を賜り、卒業生を祝福していただきました伊藤副学部長をはじめご来賓の皆様、誠にありがとうございました。今後とも変わらぬご指導、ご支援を賜りますようにお願い申し上げ、私のはなむけのことばといたします。

平成27年3月18日
新潟大学教育学部附属特別支援学校長 長澤正樹



退任の最後に,「新潟から社会を照らす光になろう」を語ります。3月25日

いきなりですが,クイズです。

次の説明は,ある有名人に関することですが,いったい誰のことでしょうか。
ヒントその一:様々なことに興味をもち,音楽,地質学,天文学,文学等,マルチタレントでした。
ヒントその二:この人が作曲した曲が,今でも出身地の市役所から,夜7時に流れます。
ヒントその三:本業は詩人であり作家でしたが,生前全く評価されず,死後もしばらくはその存在すら疑われていました。
ヒントその四:よって肥料の改善などの農業指導で生計を立てていました。
ヒントその五:高校生の頃,国語は得意でしたが体育は苦手でした。しかし,毎週のように山に登っていました。
ヒントその六:よく田んぼのあぜ道をぶつぶつ言いながら歩き,突然飛び上がるクセがありました。
ヒントその七:知的障害のある人に興味をもち,あとをつけて観察していたようです。

正解は宮澤賢治です。
ヒントその二の曲は星巡りの歌です。

賢治と私。
賢治は私の高校の大先輩です(盛岡中学校。現在の盛岡第一高等学校)。
そして私が所属していた山岳部の大先輩でもあります(むろん賢治の頃は部活がなく,山岳部が勝手に名誉部員にしています)。
しかし,高校生の賢治に対する評価はあまり芳しくなく,同じ卒業生である石川啄木や金田一京助などのほうが,評価が高かったです(私が高校生の頃のことですが)。
私も賢治にはあまり興味をもてず,というより,作品もほとんど知りませんでした。
賢治を深く知るきっかけは,転勤した養護学校がある岩手県花巻市に住み,子どもが幼稚園に入ってからです。
この幼稚園の園長先生は,賢治が花巻農学校に勤務していたときの教え子だったのです。
園長先生は保護者会で,よく賢治の作品を紹介してくれました。

二校目に勤務していた養護学校で,私は自分の仕事について,様々な悩みをかかえていました。
教員になってからずっと重度重複障害の子どもの教育にかかわっていましたが,なかなか教育の成果が現れません。
成長どころか,退行することすらありました。
「重度重複障害の子どもの教育は,教育の原点だ」と,もてはやす先生はたくさんいましたが,担当を希望する人はほとんどいませんでした。
この子らの教育の必要性を理解してもらえない時代でした。
もっと不幸なことは,子どもが亡くなることです。
私も自分が受けもっていた子が急死したときは,教師を続ける気力すらなくなりました。
しかし,迷いの中心は自分の心の中にあったと思います。

不遇だったこのころ,私を精神的に支えてくれた賢治の二つの作品があります。
それは「虔十公園林」と「雨ニモマケズ」です。

「虔十公園林」は,虔十という知的障害の人が主人公です。
彼は,日々誰にも迷惑をかけず,気楽に生きている人です。
あるとき,虔十は父に杉の苗を植えたいと申し出ます。
その場所は杉が育つには適さない土地でしたが,虔十の熱意に押され,杉の苗を植えることになります。
虔十は不幸にも亡くなりますが,杉の苗は少しずつ大きくなり,立派な杉林になります。
そして地域の人たちの憩いの場となるのです。
ただそれだけの話です。
しかし大事なことは,「虔十はみんなに評価してほしくて杉の苗を植えたのではない」ということです。
虔十はただ杉の苗を植えたかっただけです。
結果としてみんなに喜ばれた,そういうことなのです。

「雨ニモマケズ」については,もはや説明の必要はありませんよね。
でも,最後まで声に出して読んだことがありますか。
私は,これは詩ではないと思っています。
賢治の人生観・倫理観・宗教観を凝縮した「教え」だと思っています。

アメニモマケズ,
質素な生活,素朴な生き方を描き,
困っている人のために献身的に活動したいことを伝え,
それでいて,どうにもならない自然災害を前にして人間の無力さを悟り,
そして,

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ(苦にもされず)
サウイフモノニワタシハナリタイ(そういう者に私はなりたい)

(かっこ内は現在の標記))

と結んでいます。
これら二つの作品には共通する考え方があると思います。それは,他者の評価を求めず,他者のために生きることの尊さだと思います。賢治の家は裕福で,そのことを嫌って父と対立し,宗教まで変えました。貧しさに苦しむ岩手の農家のために奔走しますが,みんなから感謝の言葉をもらっても,そのことで自分を責めることがあったようです。他者の評価を求めず人のために生きる,これは大変なことです。仏教でいうところの悟り,そういう境地かもしれません。しかし,出家せずにこの考えを現実に実践することは,無理ではないでしょうか。
それにしても,死にそうな人に怖がらなくても良いというくだり,死の床についていた賢治は,自分に言い聞かせたのでしょうか。それとも死を超越した安寧の境地に達したのでしょうか。
賢治は法華経の熱心な信奉者でしたが,宗教を超えた心の支え,生き方を導く尊い精神を,私に与えてくれたと思っています。

ところで,なぜ賢治は「デクノボー」にあこがれたのでしょうか。
デクノボーとは,役に立たない人とか気が利かない人など,けっして良い意味では使われません。
賢治は,身体上の結果をあげつらって侮蔑するような意味で使っているのでは,けっしてなく,世間一般から取り上げられる社会的に地位のある人や誰もが認める実力者ではない人のたとえとして使っていると思います。
その中には,知的な遅れのある人も含まれているのではないでしょうか。

私は,知的障害のある人と付き合っていて,彼らが賢治が求めた生き方ができる人だと感じるのです。
(賢治は,知的障害のある人に,そのような価値を見いだしたからこそ,虔十公園林のモデルとしたのだと思います)
とはいえ,彼らを必要以上に美化するつもりはありません。
(こういう名もなき人を美化したくないがゆえに,賢治はあえてデクノボーということばを使ったのかもしれません)
他人の評価を気にせず,こつこつと自分の仕事を一生懸命にし,その結果が身近な人々のためになっている,そういうことをさらりとやってのける人だと言いたいのです。
自分ができる仕事を地道に続けて,世のために尽くす生き方,私は心からそういう生き方を尊いと思います。
ですから,卒業式や入学式では,この考えに基づいて何度かお話をさせていただきました。

「新潟から社会を照らす光になろう」
この意味は,賢治が伝えたかった精神に近いと信じています。

4年間,校長メッセージを読んでくださり,ありがとうございました。
子どもたち,保護者の皆様,先生方,本当にありがとうございました。

長澤正樹