奇想の画家・曾我蕭白

独自の画風を生み出すまでの経緯と背景についての考察


南波 文子



◇  はじめに
 曾我蕭白(1730〜1781)は昨今「奇想の画家」などとして語られることの多い江戸時代の画家である。蕭白の作品はその「狂気」のために明治時代以降急速に忘れ去られ、むしろ国外での評価が高い時代が続いた。このため多くの作品がアメリカに渡り今も所蔵され、門外不出の指定を受けている作品もある。よって曾我蕭白の研究の歴史はまだ浅く、若い頃の年期など多くの不明な点が残る。昭和46年に催された「若冲・蕭白・蘆雪 近世異端の芸術展」が曾我蕭白を美術関係者だけでなく一般の人々にも知らしめる最初の作品展となり、その後今日にいたるまでに4回展覧会が開かれ、次第に国内での知名度も高まっていった。こうして、曾我蕭白の評価はここ10年ばかりの間に急速に高まった。
 この論文を書くきっかけとなったのは、1998年3月24日〜5月5日にわたって千葉市美術館で開催された「江戸の奇才・曾我蕭白展」だ。現代にいたってもなお薄れることのない画の時代を超えた奇抜さ、発想の自由さは今も色褪せることがなく、むしろ歳月を経てより強烈な印象を与える。蕭白のこの異彩の源をもとめていくと、何人かの画家にたどりつく。蕭白の作品にその影響が見て取れる何人かの画家の作品と蕭白の作品とを比較し、蕭白がどのようにしてその個性を生み出したかを探っていく。

第一章  蕭白の作品にみる彭城百川の影響
 寛延3年(1750)に描かれた彭城百川の「墨梅図襖絵」という作品がある。似た作品でこの前年寛延2年(1749)に描かれた「紅白梅図屏風」がある。これらを見るかぎり蕭白がこれらの墨梅から筆法を学びとっていることはほぼまちがいないようだ。蕭白が百川の墨梅から学んだことは太い筆を使って豪快に描くということだろう。蕭白28歳頃(1757頃)の作品とされる「塞翁飼馬・蕭史吹蕭図屏風」に描かれる大木は、太い筆をつかって荒々しく描かれている。「墨梅図屏風」あるいは「紅白梅図屏風」に衝撃を受けて以来、その衝撃のダメージを自らの糧にしようとした苦心のあとがここに見て取れる。30歳の作「林和靖図屏風」になると、この大木を描く方法をすっかり自分のものとして習得している。大きく枝をふるわせた梅の巨木の幹は、生命の熱を右から左へと押し流すかのような勢いを有している。当時において、このような大画面にこれほどまでに力強く躍動的に描いたのは彭城百川の他に例がなかった。たった2年の間に、蕭白は自らの画法として消化・吸収したのである。

第二章  蕭白の作品にみる雲谷派の影響
 雲谷派の特徴は主に三点あげられる。
 @垂直に切り立つ山容や岩崖が、細かい皴を丹念に重ねて描かれ塊量をあらわされている。
 A構図は、通常山水を一双形式で展開させる場合、重心のかかった主山を両脇に寄せて中央部を開いた景観構成がとられるのであるが、雲谷派では慣例とやや異なり、近接部より中景部に力点を置き対象を中央部へと張り出した構図が多い。
 B左隻と右隻の図様が接続しない。
 C均質で硬直した輪郭の墨線を用い、カラスや栗など、独特の画題を描く。
 等顔の「山水図」と蕭白中年期の「楼閣山水図屏風」をこの特徴について比較する。@の特徴の岩肌に打たれたいくつかのこまかな点、これは木を表すものであろうが、むしろ岩の質感を感じさせる。晩年の蕭白が画風の変化の時期を迎え、また新たに雲谷派の絵画からこの柔らかな描き方を取り入れたのではないかと推測される。Aの画面中心に大きな山がそびえ立つ構図についてはこの作品ににあてはまっているとは言い難いが、左隻を見ると画面左寄りの大きな岩山が画面中央の空間をさえぎるようにそびえ立つ。こういった構成は雲谷派の特徴から影響をうけたものだろうか。Bの左右不連続の画面は、この「楼閣山水図屏風」だけでなく蕭白の多くの作品に見ることができる。これが雲谷派特有のものだとすれば、蕭白が雲谷派から影響を受けたことがより明確になるだろう。Cの特徴は蕭白の作品によく見られる。蕭白晩年の「虎渓三笑図」をみると、まるでサインペンで描いたような均質な線がひかれている。こうした線の引き方は雲谷派の絵画からヒントを得たものかもしれない。また等顔・等益が成し遂げた広闊な空間の描写は山水画に取り入れられているように思う。画面の奥へ奥へと際限なく見るものを引き込んでいく東洋的な奥行き表現と、霧に包まれたような、柔らかな山・木の表現の仕方がそれだ。蕭白は、雲谷派から上記の@〜Cの特徴を取り入れ、また空間を広く表現する技法、空間の趣の表現を学んだのだろう。

第三章  蕭白の作品にみる曾我派の影響
 蕭白がなぜ曾我派を称するに至ったかは、いまだ明らかにされていない。蕭白は1730年〜1781年の間を生きた画家であるから、蕭白が活躍したころにはすでに曾我派は途絶えており、蕭白がその流れを汲む画家であるとはいいきれない。曾我派の流派的特徴はあまり見受けられないとされている中から、しいて挙げるなら次のようなものになる。
 @水墨による全体の処理と花鳥のみに濃彩をほどこす手法
 A鳥に対する執拗なまでの活写
 B岩や土坡、懸崖を描く筆触の平行皴
 「鷲図屏風」を見てみる。この作品は全体を水墨で仕上げられているが、一部のみ彩色がほどこされている。鷲に捕らえられた猿の、少し開いた口と尻に鮮やかな赤が塗られており、これによって猿の血を想起させられ、作品から生々しさが感じられる。蕭白はこの曾我派の手法@を色彩のトリックとして用いたのだろうか。その後、このトリックは「群仙図屏風」等に応用されている。この作品は見るものに不思議な感覚をもたらす。彩色されている部分とされていない部分とがあるため、視点を定めることができない状態におちいってしまうのだ。そのように感じる原因のひとつに彩色方法が考えられる。このカラーと白黒の併用によって生じる“次元のズレ”が見るものを混乱させる。これは蕭白が仕掛けたトリックではないだろうか。その後描かれた「雪山童子図」にほどこされた彩色は、描写の奇妙さをさらに高める効果を発揮しているように思える。童子の唇、衣裳の赤と青鬼の冴えた青との対比が目を引き付ける。また「美人図」でも赤と青を強く対比させることによって、印象を強めている。水墨で描かれた背景から着彩された女の像が浮きあがって立体的にも見え、迫力ある画面に仕上がっている。もともと曾我派の伝統的手法であった部分的彩色にヒントを得て色彩による実験作を作り出したというふうに考えると、蕭白は曾我派の手法を自らの画法に「利用した」ように思えてくる。この天才的な消化吸収力を持った画家が自分の企みを表現するのに効果的と思ったのがこの手法だったのかもしれない。

第四章  蕭白の作品に見る狩野永徳の影響についての検討
 蕭白の狩野永徳からの影響について検討してみる。ここでは、永徳の花鳥図襖絵の中から「松に鶴図」と蕭白の「林和靖図屏風」左隻を比較する。永徳の大画様式を蕭白はこの作品などに用いたようだが、蕭白はここで永徳様の巨木を描かず、彭城百川様に近いかたちで大木を描いた。「林和靖図屏風」は蕭白31歳の作で、ある程度自己の手法を確立していた頃の作品と考えられるが、蕭白は永徳と百川、時代も特徴も異なるこの二人の一流画家の手法を同時に同レベルで捉え、その要素をひとつの作品に生かし、自分の個性にして見せた。
 また、これが可能であった当時の画壇のことも見落とせない。当時は狩野派がすでに形骸化して権威が失墜しており、応挙の写生画や琳派、南画、南蘋派など多くの流派が混在し、西洋画も流入していた。画壇が多彩で柔軟かつ活発で豊かな時期にあったことも、蕭白が自由に摂取しまた実験的試みで作品をつくることができた要因のひとつだろう。
 この永徳、蕭白の二作品については、たしかに構図やモチーフのみに着眼すると永徳から蕭白が受けた影響は大きいように思えるが、曾我派や雲谷派を通じて永徳画を知り、自分も永徳様を取り入れるようになったというのが本当のところではないだろうか。

第五章  蕭白の独自性について
 蕭白の絵画制作に影響を与えたと考えられる彭城百川、雲谷派、曾我派、狩野永徳の作品と蕭白の作品との関連性を比較検討してきた。ここでは、蕭白の独自性について考える。安永初期(1772〜1774頃)蕭白の晩年に描かれた「月夜山水図屏風」を見る。この作品については他からの影響を読み取るよりも、蕭白自身の円熟した技の妙を見るべきだろう。このゆったりとした風景画は全体が幻想的な雰囲気で包まれ、晩年の熟達した筆致と精密な細部表現で大画面様式のなかにも細画が生きづく作品となっている。これだけの空間を二次元空間に描きだす力量は、一流の画家にしか成し得ることのできないものだ。蕭白は代表作に限らず多くの作品でこの力量を発揮していることは注目に値する。また、蕭白は画面に多く螺旋構図を取り入れている。日本の美術において、ここまで風を描くことに取り組んだ画家は珍しいのではないだろうか。蕭白は、風そして人間の動作表情を、当時の表現の枠を超えて描いた。写生をも超えて非現実を画にすることで、より深く現実を描写したのだ。蕭白が独自の手法として編み出したものの一つが、大きく渦を巻く風を描き入れることによって画面に動きと生命感を持たせると同時に、それによって画面を統一するということだったのではないか。  
 蕭白は伝統的な方法をそのまま作品に当てはめたのではなく、いわば借り物の手法から学びとったものを吸収し、それらを消化しなおし、利用しながら、自己の表現形態を築いていったのだ。

◇  まとめ
 画家曾我蕭白があらわれた背景には、次のような点が不可欠であった。
・庶民の生活が彩りに満ちていた、江戸時代後期という時代にあった。
・狩野派、土佐派、琳派、円山派、四条派、南画など、さまざまな画風が円熟期、あるいは形骸化の時期にあった。
・さまざまな画法を吸収し、自分の画法に取り入れる蕭白の吸収力、消化力。
・それをおこなうだけの蕭白の天性の絵画センス。
 以上のようなポイントがあったからこそ、曾我蕭白の絵画は発生したと考えられる。